MSが70年前のコンピュータ技術に力を入れる理由
コンピュータの新時代が見えてきた。生成AIの利用が始まり、量子コンピュータの実用化も迫っている。Microsoftも新機軸を打ち出した。光を計算に使う「アナログコンピュータ」だ。何に役立つのだろうか。
Microsoftは2023年6月27日、光子と電子を使用してデータを処理する新しいタイプのアナログコンピュータ「アナログ反復マシン」(AIM)を発表した。アナログコンピュータ自体は第二次世界大戦以前から存在する技術だが、Microsoft Researchのヒテシュ・バラーニ氏(パートナーリサーチャー)によれば、AIMは今日の最先端のデジタル技術を上回って、今後数年のうちにコンピューティングを一変させる可能性を秘めているという。
金融や物流、輸送、エネルギー、ヘルスケア、製造など、多くの産業の基盤には難問「最適化問題」が横たわる。最適化問題を解くために設計されたのがAIMだ。現在、広く利用されているデジタルコンピュータではこのような問題を素早く、コスト効率良く、大量の電力を使わずに解くことは難しい。
なぜデジタルコンピュータでは駄目なのか
なぜデジタルコンピュータは最適化問題をうまく解くことができないのだろうか。問題のサイズが大きくなるにつれて組み合わせが指数関数的に、つまり爆発的に増加するからだ。
「巡回セールスマン問題」はデジタルコンピュータで効率的に解くことができない典型的な例だ。全国に散らばる都市を1回だけ訪れて出発地点に戻る最短のルートを計算しよう。都市の数が少ない場合は手でも解ける。都市が5つしかない場合、可能なルートは12通りしかないからだ。だが、都市の数が61に増えるとルートの数は宇宙全体に存在する原子の数(約10の80乗)を上回ってしまう。この場合のルートの数は「1/2*(61-1)!」で計算でき、これはほぼ4.3に10の81乗を掛けた数になる。
デジタルコンピュータには課題が2つある。
・課題1 計算能力の不足 デジタルチップの1ドル当たりの計算能力が伸びなくなっている。つまりムーアの法則の崩壊だ
・課題2 専用デジタルマシンの能力不足 最適化問題を解くために設計されたデジタルの専用マシンはあるものの、性能限界が低い。20年以上にわたる研究と産業界からの多額の投資にもかかわらず、専用マシンは1か0という値を取るバイナリ値の最適化問題にしか対応できないため、実用範囲が限られている
なぜ最適化問題は重要なのか
デジタルコンピュータは最適化問題が得意ではないことは解説した。だが、そもそも最適化問題は重要なのだろうか。
「重要」だというのが答えだ。
最適化問題は、実現可能な選択肢の集合から最良の解を見つけ出す課題だ。送電網の電力管理や商品配送の合理化、インターネットトラフィックのルーティングの最適化まで、こうした問題に対する効率的な解決策に現代社会は大きく依存している。
最適化問題を効率良く解くことができれば、さまざまな産業においてプロセスと結果を大幅に改善できる。金融ではポートフォリオを最適化することで、リスクを最小限に抑えながらリターンを最大化する理想的な資産の組み合わせを選択できる。ヘルスケアでは患者のスケジューリングを最適化することで、リソースの割り当てを強化し、病院での待ち時間を最小限に抑えることができる。
スーパーコンピュータやクラウドを使って最適化問題を素早く解くことはできないのだろうか。
宇宙に存在する原子の数を例に挙げた通り、多く最適化問題では、世界最大のスーパーコンピュータでさえ最適解を見つけるのに何年も、あるいは何世紀もかかる。そのため、ヒューリスティックアルゴリズム(近道や "経験則 "を用いることで近似解を提供する問題解決手法)を使うことが多い。このアルゴリズムは最適解の発見を保証するものではないが、合理的な制限時間の中で最適解に近い解を見つけるための最も実用的で効率的な方法だ。
このような重要な問題に対して、より最適な解を大幅に短い制限時間で提供できるコンピュータがどれほど大きな影響力を持つか想像してみよう。場合によっては、これらの問題をリアルタイムで解決することで、ワークフロー全体や業界に革命をもたらし、好結果をもたらすドミノ効果が生まれるかもしれない。
金融関連の最適化問題に取り組む
Microsoftの研究者チームはデジタルコンピュータの課題を解決するため、数学を応用した洞察と最先端のアルゴリズム、ハードウェアの進歩を組み合わせて3年間を費やしてAIMを開発した。その結果、光速で動作しながら、より幅広い現実世界の最適化問題を解くことができた。最新のGPUと比較して単位電力当たり速度と効率を約100倍向上させる可能性があるという。ムーアの法則を切り崩す能力があり、バイナリ値で表現できない(またはコストがかかる)問題にも対応できる。AIMは連続値をそのまま扱えるからだ。
Microsoftによれば、AIMはまだ研究プロジェクトの段階にある。だが研究開発チームは連続値とバイナリーデータが混合した最適化問題を解くための世界初の光電子ハードウェアを組み立てるところまで進んだ。現在は限られた規模での運用だが、初期の成果は有望であり、チームは取り組みの規模を拡大し始めている。
研究チームは英国を拠点とする国際金融グループBarclaysと共同研究を進めており、金融市場にとって重要な最適化問題をAIMコンピュータで解く予定だ。業界特有の最適化問題を解くための経験を積むことも目的としている。2023年6月8日にはAIMシミュレーターを提供するオンラインサービスを開始し、パートナーはAIMの可能性を探ることができるようになった。
AIMはどのように動作するのか
光を伝える素粒子「光子」は互いに相互作用しない、つまり衝突しても互いに擦り抜ける性質を持つ。この性質があるために、光を使って大量のデータを長距離伝送できる。これは皆さんのPCがインターネット接続する際にも使われている技術だ。
光子には周囲の物質と相互作用する性質もある。この性質を使うと最適化アプリケーションの基礎となる加算や乗算などの線形演算を光で実行可能になる。スマートフォンのカメラセンサーに光が当たると、入射した光子が加算されて電流が発生する。インターネット接続に使う光ファイバーでは光の強度をプログラムで制御することによって、0と1のデータを表している。光と物質の相互作用による光のスケーリングを利用すれば、光を使って乗算を実行できる。効率的な最適化アルゴリズムにとって重要な非線形演算も実行できる。そのためには線形演算のための光学技術だけでなく、日常技術に普及している他のさまざまな電子部品を利用する。
AIMは、必要な計算を把握する方程式によって支配される光と電子の両方のアナログ技術の組み合わせを使用している。そのため、線形演算だけでなく非線形演算が必要な特定のアプリケーションでも効率が非常に良いという。最適化問題で最適解を見つけることは、想像を絶するほど広大な干し草の山から針を見つけることに似ている。研究チームは、このような針探し作業を効率良く実行する新しいアルゴリズムも開発した。値を決定する必要のある問題変数を「ベクトル」で表し、問題そのものを「行列」で表現する。図1に示すように、汎用(はんよう)の光学技術や電子技術を使用して、乗算を省電力で実行できる。
図1 汎用光技術(奥の色付きの部分)とアナログエレクトロニクス(手前の黒い箱)を用いて、AIMは超並列ベクトル/行列乗算を実現する。左奥の光源のアレイ(Light sources)を使ってベクトルを表現し、変調器アレイ(中央奥のグレースケールの市松模様)で表現した行列を通り、結果がカメラセンサーに集まる(提供:Microsoft)
AIMは小型化が可能
AIMで利用するコンポーネントは小型化が可能だ。全てを数センチ規模の小さなチップに収めることができ、図2に示すように、AIMコンピュータ全体を小さなラック筐体に収納できた。光は約3ナノ秒で1メートル進むため、AIMコンピュータ内の繰り返し演算はデジタルコンピュータで同じアルゴリズムを実行した場合よりも大幅に速くなり、消費電力も少ない。重要なのは、問題全体をコンピュータ内部の変調器マトリックスに埋め込むために、AIMでは問題を表すデジタルデータを記憶装置と演算装置の間で行ったり来たりさせる必要がないことだ。さらに同期式デジタルコンピュータとは異なり、AIMの動作は完全に非同期式だ。このようなアーキテクチャの違いがあるため、デジタルコンピュータが持つボトルネックを回避できたという。
AIMは科学者が作った高価なおもちゃに見えるかもしれない。だが、AIMで使用した全ての技術は、既存の製造エコシステムで賄うことができる。それも消費者向け製品ですでに普及している技術で製造可能だ。実用化に向けた技術的課題を克服することができれば、フルスケールで実行可能なコンピューティングプラットフォームを製造しやすい。
AIMはこれまでの最適化問題専用マシンとは何が違うのか
産業界や学術界の研究者は、「発見的アルゴリズム」を用いて最適化問題を効率的に解くために、さまざまな専用マシンを構築してきた。FPGAや量子アニーラー、電気・光パラメトリック発振器システムなど、さまざまなカスタムハードウェアを含むマシンだ。しかし、難しい最適化問題を「イジング」「マックスカット」「QUBO」(2次制約なし2値最適化)と呼ばれる0/1の2値表現にマッピングできるかどうかに依存していた。バラーニ氏によれば、従来のマシンはいずれも、デジタルコンピュータに取って代わる実用的なものにはならなかったのだという。なぜなら、実世界の最適化問題をバイナリ表現にマッピングすることが非常に難しいからだ。
AIMでは、QUMO(2次非制約混合最適化)と呼ばれる、より表現力豊かな数学的抽象化を導入した。これは、2値変数と連続変数の混合変数を表現でき、ハードウェア実装と互換性があるため、多くの実用的で制約の多い最適化問題の「スイートスポット」となるという。業界の専門家との議論によると、AIMを1万変数まで拡張すれば、これまで紹介した実用的な問題のほとんどに手が届くようになるという。QUMO抽象化に直接マッピングできる1万個の変数を持つ問題は、1万個の物理変数を持つAIMコンピュータを必要とする。これに対して、既存の専用マシンでは、100万個の物理変数を超えるスケールが必要となり、ハードウェアを構築することが困難だ。
AIM向けのアルゴリズムも開発した
Microsoftの研究チームはハードウェアだけではなく、ソフトウェアアルゴリズムも開発した。QUMO問題を解くための斬新で効率的なアルゴリズムを実装したという。機械学習でもよく使われる勾配降下法の高度な形式に依存したものだ。
産業界から着想を得たさまざまな問題をGPUベースのシミュレーションでAIMのアルゴリズムをベンチマークしたところ、非常に競争力のある性能と精度を示したという。4つの問題に対しては過去最高の解を新たに発見した。2022年に組み立てた第一世代のAIMコンピュータは、最大7bitの精度で表現されるQUMO最適化問題を解く。7bitの精度の問題にとどまらず、金融取引の決済問題を量子コンピュータよりも高い精度で、室温で計算できる。
AIMの性能はすでに実証済みだ。専用サーバや問題解決ソリューションとして利用可能になる日が待ち遠しい。
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