「持つ経営」のトラスコ中山、オンプレSAP S/4HANAをクラウド移行する逆張り戦略
トラスコ中山は「在庫は成長の源泉」と考え、業界内でも圧倒的な数の在庫を保持することで成長を続けている。なぜ在庫を保持すべきと考えているのか。そしてどのようにして顧客に製品を短納期で届けているのか。同社のビジネスモデルを支えるデータ基盤とERPの関係が明らかになった。
トラスコ中山は、製造業が工場で用いる機械工具などの間接材や副資材を販売する卸売事業者だ。1959年創業の老舗で、全国28箇所に物流センターを構える。過去25年間で売上高は約3倍に成長し、2024年12月期の会社予想では2847億円を見込んでいる。
在庫を必要最低限に抑えることで資産や管理コストを圧縮する企業が多い中、同社は「在庫は成長の源泉」と考え、業界内でも圧倒的な数の在庫を保持することで成長を続けている。
トラスコ中山はなぜ在庫を保持すべきと考えるのか。そして、どのようにして顧客に製品を短納期で届けているのか。2024年7月に都内で開催された「SAP NOW Japan」の基調講演で、同社の数見 篤氏(取締役 経営管理本部本部長兼デジタル戦略本部本部長)が登壇し、ビジネスモデルを支えるデータ基盤とERPの関係について講演した。
在庫を必要最低限にせず、増やし続ける
同社のビジネスモデルにおける最大の特徴は、業界内でも圧倒的な数を誇る在庫量だ。「在庫は必要最低限に抑えた身軽な経営が有利だと考える企業が多い中、当社はひたすら在庫を増やしている。その理由は、『在庫は成長の源泉』というのが、当社の基本的な考えだからだ。お客さまである販売店や最終ユーザーから『トラスコなら何でもそろう』『トラスコに言えばすぐに届く』と思ってもらえるから引き合いがあり、成長につながっている」と数見氏は言う。
事実、同社の在庫数は競合他社と比べて約2.7倍の60万点、金額にして508億円と非常に多い。しかし、同社はさらに在庫の拡充を計画しており、2030年に100万点の在庫を目指している。
ただし、単純に在庫の数だけを増やせばよいわけではない。無駄なものを多く持っていても、かえって顧客対応の妨げになる。そのため同社は、過去の販売実績を基にデータ分析し、在庫1品ごとの需要予測を可能とする「ZAICON」と呼ぶシステムを独自に開発した。「目的はあくまで、在庫切れによる出荷遅れをなくすこと。その目的のため、従来は担当者の経験と勘に頼っていた在庫管理を、徹底したデータ分析で適正化し、お客さまから注文を受けて即日納品できる態勢を構築した」(数見氏)。同社の圧倒的な在庫量は、このシステムがあってこそ生かされている。
この分析力を生かし、最終ユーザー企業の工場に同社専用の工具棚を設け、あらかじめ在庫を置いておくサービスも提供している。“富山の置き薬”と同じ発想だが、顧客は注文する必要すらなく必要な工具を手に入れられる。「『MROストッカー』と呼んでいる。古いビジネスモデルを最新のデジタルアプリケーションで開発し、納期ゼロを実現した。非常に好評で、導入件数が伸びている」と数見氏は話す。
自社保有のデータを生かし切るデジタル基盤を構築
増やし続けている在庫に対して、同社が管理している最も重要なKPIが、「在庫出荷率」だ。これは文字通り、注文の回数に対して在庫から出荷できた割合だが、現在の値は92.1%と非常に高い。「この数字を0.1%でも上げることが、当社の企業価値を向上させることだと考えている」(数見氏)。一方で、在庫が多いと廃棄の問題を指摘する向きも多い。ただこれは、在庫出荷率が高いこともあり、廃棄率は0.13%と抑えられている。
このように、徹底したデータ分析と顧客優先の姿勢によって成長を続ける同社だが、このビジネスモデルの実現には、強固なデータ基盤と、その上で動くデジタルアプリケーションが不可欠な存在だ。
基幹システムに「SAP R/3」を採用し、2006年に稼働を開始した。2013年に「SAP ECC6.0」へバージョンアップし、2020年にはオンプレミス版の「SAP S/4HANA」(以下、S/4HANA)へと移行した。
SAPを基盤にして、同社は社内の業務効率化だけでなく、上流、下流の取引先を含めたDX(デジタルトランスフォーメーション)を進めている。例えば販売店からの見積もり依頼に対して、AIがこれまでの実績を基に最短5秒で価格と納期を自動回答する「即答名人」や、商品の検索と注文をタブレットなどで完結できるECサイト、仕入れ先に当たる企業が、自らトラスコ中山のデータベースに商品を登録し、販売先とつなぐ商品データベース機能などを提供する。
これらのシステムを導入した結果、同社の受注のうち担当者を介さないシステム経由によるものが86.3%を占めるまでになった。「私が入社した1990年代は、電話やFAXによる受注だけで、担当者の経験と勘が必要だった。2000年以降、SAPを導入してさまざまなデジタルアプリケーションを開発してきたが、全てはお客さまの利便性向上が一丁目一番地であり、それは今後のビジネス戦略を考えるうえでも変わることはない」と数見氏は話す。
「持つ経営」なのになぜ、クラウドに移行するのか
同社は現在、さらなるビジネス基盤の強化に取り組んでいる。SAPが提供する「RISE with SAP」を利用して、ビジネスの中核を担うオンプレミスERPのクラウドシフトを進めているところだ。
なぜ、ERPのクラウド移行が必要なのか。単純にクラウドにしてコストダウンや効率化を図りたいということではないと、数見氏は語る。
「当社がこれまで蓄積してきた顧客データのほとんどがSAPの中にある。これからは、そのデータをAIで分析し、お客さまが欲しいものを予測することが、お客さまの利便性向上にとって不可欠だ。またお客さまのニーズはどんどん進化していく。年に1回のアップグレードではついていけない。常に最新のテクノロジーを使うためにも、クラウドの基盤が必要だと考えた」
同社は在庫をはじめ、物流センターなどのインフラを自社で保有することにこだわりを持つ「持つ経営」を実践する企業だ。それなのになぜ、基幹システムをクラウドに移すことを決めたのか。これに対して数見氏は次のように話す。
「ポリシーが変わったわけではない。今でもインフラを自社で保有する考えを大事にしている。ただし、そのポリシーよりも優先されることは、お客さまの利便性を向上させることだ。その手段があるなら、ポリシーを変えてでも極めていくというのが今回の経営判断だ。私がCEOなどを説得したわけではなく、理由を説明すると、すんなり納得してもらえた」
同社の次世代システムのアーキテクチャでは、中心に置かれるクラウドERPは、SAPが推奨する「クリーンコア」を意識している。データ基盤をシンプルにし、その周囲に、同社がこれまで開発してきたサプライチェーン全体を効率化するアプリケーション群を配置し、連携させるイメージを描いている。
「当社が目指しているのは、お客さまにとって『ベストなものが、もうそこにある』という世界。将来的には、お客さまや取引先からの見積もり、注文といった手続きがなくなり、常に欲しいものが手元にある状態だ。そのための生産計画、在庫や物流が全て連携させる世界ができると考えている」(数見氏)
現在はまだ夢物語のように聞こえるかもしれない、と数見氏は前置きしつつも、期待を隠さない。「生成AIの進化のスピードは目を見張るものがある。これからは構造化されたデータだけでなく、より幅広いデータが扱えるようになる。その時代に対応するためには、ビジネスのエンドトゥエンドで、大きくアーキテクチャを書き替える必要があると思っている。今回のERPのクラウド移行は、そのための一手だ」
また、数見氏は現在、SAPの国内ユーザー会の会長も務めている。SAPユーザーの代表として、SAPのテクノロジーの進化をどう捉えるべきかについて、次のように語った。
「2024年の年次イベント『SAP Sapphire』以降、SAPのカバー領域は、ERPからビジネス全体に拡大した印象を強く持っている。それは、あらゆる領域でAIを活用して業務を効率化する世界が見えてきているからだ。この認識は、どの企業も異論がないと思う。ただし、その世界に向かっていくロードマップは、個社によって違う。ユーザー会では業界ごとの部会やSAPの専門家とのコミュニケーションなどを通じて、それぞれの企業が新しい世界に向かっていくための支援の場を提供したい」
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