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仏教と科学技術の融合で心の理想状態を導く「サイキ・ナビゲーション・システム」とは

デジタル技術を心身の健康に役立てる研究が進んでいる。しかし、人が幸せを感じる心の状態を定量的かつ科学的に解明し、その状態に近づける技術に正面から取り組んだ研究はほとんどなかった。その難題に、伝統知と科学技術で答えようとする研究が「サイキ・ナビゲーション・システム」開発だ。

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「サイキ・ナビゲーション・システム」とは?

 人文領域の研究と科学技術、デジタル技術を融合し、人の心を「理想状態」に近づけるために研究開発が進むのが「サイキ・ナビゲーション・システム」(Psyche Navigation System/以下、PNS)だ。「心の理想状態」を宗教や哲学といった伝統知から探り出し、個人個人の心の状態を定量化する心理計測技術と「心理アクチュエーション」技術を駆使して幸せや安寧を感じる状態に導くことを目指す。

 この技術は、単一の学問領域や研究領域ではなく、図1に示すような思想哲学空間と感情空間、情報空間、物理空間において多様で多岐にわたる研究と技術開発が必要で、壮大なフレームを持つ総合科学的な開発となる。2021年には科学技術振興機構(JST)のムーンショット型研究開発事業、新たな目標検討のためのビジョン策定(ミレニア・プログラム)で採択された。


図1 サイキ・ナビゲーション・システム(PNS)開発に関連する分野、要素技術(出典:京都大学こころの未来研究センター)

研究の発端は仏教の価値観が根付くブータン社会への感銘

 この研究の端緒を開いた京都大学こころの未来研究センターの熊谷誠慈准教授は、仏教学専攻でインドやチベット、ブータンの歴史と哲学、古文書研究を専門とする。熊谷氏は仏教の価値観が色濃いブータン社会に感銘を受けPNSの研究開発に至った。PNS研究には、認知科学の専門家である京都大学こころの未来研究センター特定講師の上田祥行氏や同大情報学研究科准教授の粟野皓光氏、情報システム工学の専門家であり「粉末コンピュータ」(極小サイズの情報機器)開発などにも携わる大阪大学教授の三浦典之氏らも参画する。

 「仏教国のブータンでは、仏教倫理や哲学が社会の隅々に浸透しています。GNH(国民総幸福量)という独自の国家指標を打ち出し、政策に仏教倫理、哲学を取り入れた国でもあります。幸福とは何かの指標を作るだけでなく、どう幸福を目指すかの取り組みに仏教の価値観が反映されています。GNHは日本でも東京都荒川区などの市区町村をはじめ県単位の自治体からも関心が寄せられ、『幸せリーグ(住民の幸福実感向上を目指す基礎自治体連合)』を形成する動きも出てきています。このGNHのエッセンスから、心の理想状態に近づくための本質的な答え、汎用(はんよう)的に応用できる技術が求められるのではないかと考えたのが始まりです」(熊谷氏)。

 ブータンのGNHは、「持続可能で公平な社会経済開発」「環境保護」「文化の推進」「良き統治」を4本柱とし、指標として「心理的な幸福」「国民の健康」「教育」「文化の多様性」「地域の活力」「環境の多様性と活力」「時間の使い方とバランス」「生活水準・所得」「良き統治」の9分野を設定している。

取り組みによる最初の成果は悩みを解決する仏教対話AI「ブッダボット」

 GNH指標は日本企業も積極的に取り組む従業員のメンタルヘルス改善施策に通じるが、この枠組をそのまま日本に輸入しても歴史や文化の違いから導入は難しい。さらにGNH指標はインタビューなどを基に人の判断で数値化するため、主観的要素が強くなってしまう。そこで熊谷氏は心理状態を定量的に分析できる客観指標によるメンタルフィットネス(従業員などの潜在能力を引き出す心の鍛え方)が実現できないかと考えた。

 PNS研究の第一歩目は、京都の天台宗寺院青蓮院問跡の執事長、東伏見 光晋氏と熊谷氏との議論の中で生まれたアイデアからだ。東伏見氏は、以前から仏教を身近なものとするためAI(人工知能)を応用できないかと考えていたという。両氏は、2019年の夏、AI開発事業を担うQuantum AnalyticsのCEO、古屋俊和氏に「ブッダの知性をAIで再現できないか」と相談を持ちかけた。「知性の再現は難しいが、ブッダの説法を再現するAIbotなら可能」という古屋氏の意見を受け、チャット形式の一問一答でブッダの説法のエッセンスが示される「ブッダボット」開発に取り組むこととなった。

 ブッダボットは現存最古の経典「スッタニパータ」などの原始仏教に近い経典からデータを抽出し、Googleの自然言語処理モデル「BERT」を利用した機械学習を経て作られた。2021年3月時点でのデータ量は108件だったというが、それでも自由形式での質問に対してある程度納得感のある答えが出力された。

 質問によっては回答精度が低く、他の経典から学習データの追加やユーザーのフィードバックを組み込んだモデル更新などによって、さらなるモデルの成長が期待される。また学習データとして入力する経典の日本語訳を、現代人の理解に合うように大幅に意訳していることから、経典の文献学的研究にそのまま用いることは危険で、また一般の人の利用に際しても誤用や誤解釈、悪用が生じるリスクも大きい。そのため、ブッダボットの一般公開はまだ実現していない。

 しかし、この開発によりビジネス化への最初の手応えはつかめた。ブッダボットの問題点が改善され、リスクを抑えられる見込みができた段階で公開する計画だ。

PNSに関わる技術のポイントは?

 PNSには図1に挙げた4領域にわたる総合的な取り組みが必要だ。主な取り組みは以下のように計画されている。

(1)「伝統知DX」による理想的な心の在り方の探求

 「理想的な心の在り方」は画一的に誰かが規定できるようなものではない。しかし多様な心の在り方の根底には、どんな人にも共通する汎用的なものがあり、それが幸せという感覚に結びついているのではないか、そしてその汎用的なものは、伝統的に受け継がれてきた宗教書や哲学書などの伝統知から抽出できるのではないかというのが研究チームの仮説だ。

 従来は研究者の主観的な考察による研究手法が主だったが、現在は機械学習をはじめとする情報科学を応用することで客観的な分析や活用が可能になり、収集や活用が可能なデータも著しく増えている。膨大な文献を対象に分類や整理、解釈が可能になったことで、定量化された集合知を研究に利用できるようになった。

 研究チームは宗教書や哲学書の電子テキストデータを収集し、機械学習により重要要素を自律的に抽出可能なシステムの構築を目指す。そして、心のあるべき姿についての議論を定量的かつ俯瞰(ふかん)的に認識、活用する。これを研究チームは「伝統知DX(デジタルトランスフォーメーション)」と呼ぶ。

 古文書画像の電子テキスト化技術、原本字体の誤記の校訂技術のさらなる発展が必要となる他、ブッダボットのような自由形式の質問への回答の自律探索、自律提示システムを洗練させ、ユーザーの特性や状況に応じた最適解を提示できる学習機能つきのAIシステムの開発、学習の前準備や学習時間の短縮技術などの開発も求められる。

 なお、伝統知に含まれる男性中心主義など現代社会に合致しない部分を世論や世界情勢などの総合的な学習で実用可能な形にチューニングすること、また文献データ以外の非言語的な伝統知や身体技法、儀礼、生体データなどを利用して活用することも考えられている。

(2)感情を定量化して活用する「感情DX」

 感情の定量化や分類はSNS分析などでも取り組まれているが、現在の感情理論体系が汎用的、普遍的であるかには批判もある。従来用いられてきた感情価(valence)と覚醒度(arousal)の2軸表現や喜び、怒り、驚き、嫌悪、恐怖、悲しみ(基本6感情)のカテゴリーモデルを包含しながら、文化特有の感情表現を概観できるような軸を付加した感情の多次元空間表現を見いだすことが課題だ。

 生体から計測可能な情報(顔画像、心拍、皮膚電位、発汗、声、体動、姿勢、視線、まばたき、瞳孔の大きさ、筋電位、ストレスホルモンなど)がどのような感情に結び付いているのかを解明しなければならない。従来よりも多くの様相性(モダリティ)によるマルチモーダルセンシングと、さらに細密な感情カテゴリー化も必要だ。

 また、感情の直接計測は主に計測される人の主観に基づく報告に頼ることになるが、その主観報告を生体情報の計測値と結び付けて精密に感情カテゴリーとして分類する(超解像化)ことも重要だ。

 さらに、単に顔写真などを多量に収集して学習して感情をモデル化するような手法ではなく、時間による感情の遷移や、環境空間のコンテクスト情報(気温、湿度、場所といった物理的センシングと、「どこで」「誰と」「何のために」といった目的志向の情報)を加味する必要もある。これらが可能になれば、デジタルで人の心の現在の状態を表現できる。

(3)心を見守り動かすセンシング・アクチュエーションインフラ

 心の状態を計測するには特殊で大規模な設備ではなく、ユーザーに計測されていることを意識させずに、どのような状況でもリアルタイムにデータを取得するコンパクトなデバイスが必要だ。これには三浦氏が開発に携わっている粉末型などの超小型センサーが有用だと考えられている。形状によっては体内への設置も可能だが、センサーへの給電や通信の問題、心理的かつ法律的課題もある。なお、PNSが最終的に目指すのは心を理想状態に導くことのため、脳活動を直接計測し、刺激を脳に直接返す脳細胞インタフェース技術の開発も視野に入っている。

(4)心を理解するコンピューティング基盤

 理想状態への導きのためには、あらゆる刺激がどのような感情につながるかが解明できていなければならない。そのために刺激に対応する感情をシミュレートする「情動シミュレーター」が必要だ。五感や思考などへの刺激で喚起される感情の予測には心理学に基づく感情の理論モデルの構築と実測情報のすり合わせなどが重要となる。集団レベルで情動シミュレーターを展開する場合は、個々人の情動シミュレーションとともに感情の伝播(でんぱ)、相互作用を調査し実装しなければならない。量子コンピュータを前提にした量子アルゴリズム化が活用されるだろう。

 以上、今回は伝統知DXの試みを中心に、PNSの概念と研究の方向性や課題を俯瞰した。2050年までの開発ロードマップは図2の通りだ。


図2 2022年から2050年までのPNSの開発ロードマップ(出典:京都大学こころの未来研究センター)

 熊谷氏は「こうした技術を駆使して人の心の状態を定量化し、個人の感情だけでなく複数の人間の関わりで生じる集合的感情も客観的に把握できれば、どのような刺激(アクチュエーション)を与えれば心を理想的な状態に近づけられるかも分かってきます。技術によって世界を安寧と活力に満ちた社会にしたいというのが私たちの願いです」と語る。PNSは、先進的な科学技術と仏教をはじめとする伝統知が浸透している日本だからこそ構築可能なイノベーションプラットフォームと言えそうだ。

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