SAPの重鎮が引退 半世紀のキャリアと戦略の誤算を振り返る
SAPの共同創業者であるハッソ・プラットナー氏の退任は、同社の一つの時代の終わりと新たな始まりをもたらす。同氏がリーダーシップの象徴として築いた遺産を考察する。
ハッソ・プラットナー氏は2024年5月の初めにSAPを去った。SAPにとっては一つの時代の終わりを告げる出来事だ。
同氏がリーダーシップの象徴として築いてきた遺産に関する考察をする。
SAPの歴史そのものでもあるハッソ・プラットナー氏
2024年5月15日(現地時間)、過去21年間にわたってSAPの監査役会の議長を務めてきたプラットナー氏が退任した。80歳のプラットナー氏は、ディートマー・ホップ氏をはじめとする元IBMの3人の同僚とともに、1972年にSAPを共同設立した。CEOを務めた期間を含めるとSAPの52年間の全てに関わってきた。
しかし、SAPの歴史には栄光だけでなく誤算もある。「S/4HANA」を巡る指摘を基にひもとく。
プラットナー氏は1998〜2003年まで共同CEOを務め、SAPは同氏のもとで「SAP R/3」や「SAP ERP Central Component」、そして次世代の「SAP S/4HANA」(以下、S/4HANA)に至る主要なERPシステムの移行を経験してきた。S/4HANAは、同氏の推進したインメモリデータベースである「SAP HANA」(以下、HANA)に構築された。同時期にSAPはクラウドへの転換も進めているが、大規模な顧客基盤の大半は依然としてオンプレミスを利用している。
SAPは、「SAP Ariba」(ビジネスネットワーキング)、「SAP SuccessFactors」(人事管理)、「Fieldglass」(ベンダー管理)、「SAP Concur」(経費管理)などの企業向けSaaSの買収によってクラウドプロファイルを強化した。また、「SAP S/4HANA Cloud」の内部開発もしている。さらに、開発と統合のための「SAP Business Technology Platform」や、企業データ管理のための「SAP Datasphere」など、製品ポートフォリオの拡充も進めている。そして過去1年間ではAIアシスタント「Joule」を含むAIおよび生成AIの機能を多数追加している。
SAPは今後、象徴的な元リーダーの意見を聞くことなく、クラウド移行に関する継続的な問題やAIの急成長といった技術およびビジネスの課題に対処しなければならない。エンタープライズIT業界の多くのオブザーバーは「プラットナー氏は業界に対して、複雑でありながらも紛れもなく大きな影響を残した」と考えている。
業界初期の変化をリード
メディア企業であるDiginomicaのジョン・リード氏(共同創設者)によると、1968年にIBMでキャリアをスタートさせたプラットナー氏は、ドイツの起業家たちにとって巨大な存在だという。
「SAPの成り立ちは非常に興味深い。元IBMの一握りの従業員が集まって作ったものからSAPが生まれている。驚くべきことの一つは、プラットナー氏と共同創業者たちが顧客と共に製品を開発したことだ」(リード氏)
リード氏によると、プラットナー氏のリーダーシップは、メインフレームからクライアントサーバコンピューティングへの移行など、エンタープライズコンピューティングにおける幾つかの重要な動きをSAPにもたらした。SAPのEPRは、ほとんどの製品とは異なる方法を用いて世界的なプロダクトになった。
「プラットナー氏は最終的に、エンタープライズソフトウェアの歴史において高く評価される人物だ」(リード氏)
コンサルティング企業であるEnterprise Applications Consultingのジョシュア・グリーンバウム氏(プリンシパル)も「コンピューティングの重要性が認識されていない市場に属しているとしても、プラットナー氏がエンタープライズコンピューティングの業界に与えた影響を過小評価すべきではない」と述べている。
「プラットナー氏がドイツの起業家として成し遂げたことは、IBMでの安定した雇用を離れたことも含めて画期的だ。現在のグローバル市場における主要なソフトウェア企業を築いたことも重要だ。ドイツ、あるいはヨーロッパの企業としては、ほぼ唯一のものだろう」(グリーンバウム氏)
グリーンバウム氏は「SAPは、戦後ドイツから生まれた最も重要な企業となった。SAPを除く現在のドイツの主要企業は、第二次世界大戦前に設立されたものだ」とも述べている。
アナリストであり、エンタープライズIT業界のブログである「Deal Architect」の創設者であるヴィニー・ミルチャンダニ氏は「プラットナー氏が残した最も重要な遺産は、SAPが時代の変化に適応する能力だ」と述べた。
「SAPがこれほど多くのアーキテクチャの変更、垂直的な進化、世界的な変化に対応して進化してきたことは驚くべきことだ」(ミルチャンダニ氏)
リーダーシップの発掘と育成
グリーンバウム氏は「プラットナー氏がSAPの企業文化の確立に大きく貢献したこと、そして同氏がリーダーをひき付け、育てたことも注目に値する」と述べた。
「プラットナー氏がひき付けた人材の種類と、SAPのイメージとして確立したものについて言及すべき点が多くある。米国における典型的なテクノロジー企業のイメージである『貪欲であることが善である』『どんな犠牲を払っても収益と利益を追求する』とは異なるイメージをSAPは有している。ただし、SAPがウォール街と投資家に焦点を合わせるようになったことで、その傾向はある程度変わった」(グリーンバウム氏)
グリーンバウム氏によると、プラットナー氏のもとでSAPは、他の企業よりも前から持続可能性などの問題の最前線に立っていた。
「一般的にヨーロッパは持続可能性の問題について北米企業よりも早くから取り組んでいた。SAPがドイツにおける労働市場と労使関係の問題を、米国の多くのテクノロジー企業が経験したことのない形で解決を模索しており、それは非常に新鮮だった」(グリーンバウム氏)
戦略における誤算
しかし、業界のオブザーバーは、プラットナー氏の遺産が多面的なものであり、幾つかの重大な誤算も含まれていると考えている。
SAPはERPの中核技術をメインフレームからクライアントサーバ、クラウドへと進化させてきたが、インターネットやSaaS向けのソフトウェアの開発で遅れたという批判は長年続いている。これによってOracleやSalesforceなどの競合他社に対して、クラウドERPソフトウェアやSaaS型CRMといった分野で市場シェアと機能範囲を獲得する機会を提供してしまった。
データベースのHANAの開発について、コンステレーション・リサーチの副社長兼主席アナリスト、ホルガー・ミューラー氏は「プラットナー氏にとって、間違いなく最大の戦略的かつ技術的な失敗だった」と語った。
「HANAは素晴らしい技術の集大成だったが、時間や資金、人材をあまりにも多く費やした。例えば、SAPがHANAデータベースに移行せずにOracleデータベースのみで実行していれば、S/4HANAで3〜4年のアドバンテージを得ていたと思う。そして、SAPの開発者はインメモリでERPを改善できていなかった」(ミューラー氏)
しかし、グリーンバウム氏によれば、SAPのインターネットやクラウドへのアプローチといった一部の失敗とされた分野については、数年後には状況が変わるという。
「後から振り返ると、長期的にはそれほど重要ではなかったことが興味深い。SAPがクラウドを採用し、特に戦略的なクラウドサービスの買収を通じて、膨大なレガシーオンプレミス基盤にもかかわらず、今日ではクラウド分野でかなり有利な立場に立っている」(グリーンバウム氏)
リード氏によると、クラウドアプリケーションに関する決定には疑問の余地がある。プラットナー氏はエンタープライズソフトウェアテクノロジーの初期の数回の波において最前線に立っていたが、SAPが自社製のCRM製品を構築し、他のオンプレミスCRM製品よりも長く存続したにもかかわらず、クラウドCRMの開発では成功しなかった。
「Salesforceの重要性は、SaaS製品として構築されたことにある。もし批判するなら、SAPがインメモリデータベースの構築にリソースを割き、クラウドへの注力をそらすのではなく、クラウドアプリケーションの構築にもっと集中すべきだったのではないかという疑問が生じる」(リード氏)
SAPの前進
プラットナー氏のSAP退社は、同社にとって一つの時代の終わりを告げるが、今後の同社の戦略的方向性への影響は限定的と考えられる。
ミューラー氏によれば、SAPの経営陣は今後「ハッソ氏は何と言うだろうか」と尋ねる必要を感じることなく新しいプロセスを策定する局面に直面する。
「SAPがオーナー不在で経営されるのは初めてであり、新しい状況となる。良いことも悪いことも起こるだろうが、これはSAPに必要な進歩であり、創業者の生涯を超えて存続することになるだろう」(ミューラー氏)
プラットナー氏のいないSAPの経営陣は、AIなどの複雑な技術変化を乗り切る任務を負うことになるが、これは数年前から続く状況であり、SAPの経営陣を一人の人物と結び付けることはなくなっているとリード氏は述べた。
「SAPは今後も長く存続するだろう。同社が再びエンタープライズソフトウェア技術の最先端企業として認識されるかどうかは不明だが、今後何年にもわたって重要な存在であり続ける」(リード氏)
実際、SAPが成長と変化を続けてきたため、プラットナー氏のSAPに対する直接的かつ目に見える影響はここ数年で限定的になっていたとグリーンバウム氏は指摘する。
「SAPは、単に自主的に運営されているだけでなく、プラットナー氏のようなカリスマ的な人物がトップに立つこととは無関係に、自らの意志で動く企業へと成長した」と彼は述べた。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
関連記事
- SAPが推奨する「クリーンコア」は本当に正しい選択なのか? CTOが疑問に答える
本Q&Aでは、SAPのCTO(最高技術責任者)であるユルゲン・ミュラー氏が、SAO S/4HANA Cloudへの移行でクリーンコアが不可欠な理由と、新たな支援ツールについて説明した。 - SAPが注力する「デジタルコア」 基本とメリット、ベンダーの取り組みを解説
デジタルコアは次世代のワークロードをサポートする。デジタルコアに期待される効果やメリット、ベンダーによる取り組みを確認しよう。 - 「AIでECCユーザーの移行ペースが早まっている」 SAPのCEOが強気に語る背景
SAPのCEO(最高経営責任者)、クリスチャン・クライン氏は「2024年、AIはERPの移行を迅速化させた」と述べた。ERPにおいてAIの効果はどれほど大きいのだろうか。