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中国の保険AIはどこまで顧客体験を変える? 平安保険の狙い

保険や金融業界でAI活用やRPAによる業務自動化が注目を集める中、中国で急成長を遂げる技術重視の保険会社は全く別の方法で顧客体験とサービスそのものを変えるアプローチを取る。大方のサポートは10分で自動処理可能なところまで作り込んでいるという。その詳細を聞いた。

» 2019年06月10日 10時00分 公開
[原田美穂キーマンズネット]

 個人向け保険の業界で成長著しい企業の1社が中国の平安保険だ。「ベテランが5分かけていた作業を0.154秒に短縮」「10分で手続きと保険手続き完了」など、技術力を生かした商品やサービスを次々と展開する。その根幹にあるのは、「AI導入」「AI活用」ではなく「顧客体験の最適化」への本気の資源投入だ。

 同社のAI関連技術を主導する技術者が来日、自社商品が実装するAI関連技術の詳細を披露した。本稿ではその内容を再構成して紹介する。

※本講は2019年5月16日に開催された「インテル・データセントリック・イノベーション・デイ」(主催:インテル)の講演「中国平安保険のAIの取り組み」を基に再構成した。



中国平安保険(Ping An)のAI+金融サービスは「顧客体験最適化」が基底にある

写真 Jianzong Wang氏

 中国平安保険は中国に本拠を置く超大手企業の1つ。本稿執筆時点で『Forbs』誌の企業ランキングで7位、『Fortune』誌では29位に位置しており、金融や保険、投資分野でも大きなプレゼンスを持つ。事業範囲は中国のみでなく、シンガポールやマレーシアにも広がる。直近では同社のヘルスケア部門が単独で香港市場に上場、ソフトバンクが出資したことで日本でも注目を集めた。

 その平安保険グループの技術部門であるPA科技(PA Tech)で副主任エンジニア兼シニアAIディレクターで、フェデレーテッド・ラーニング・プラットフォームのチームリーダーも努めるJianzong Wang博士はAI関連技術の研究者だ。中国ビッグデータ専門委員会のシニアメンバーでもある。Wang氏は2015年から平安保険に参加。以来同社のAI技術開発に貢献してきた。

 Wang氏はスマート車両損傷検出や声紋認識、動物顔認識、翻訳、音声合成など、金融保険業界でのAI利用を専門的に研究する。中国平安保険の事業基盤である「フェデレーテッドラーニングプラットフォーム」「ディープラーニングプラットフォーム」「ヘテロジニアスコンピューティングプラットフォーム」の構築および運用を主導する立場にある。

 Wang氏が平安保険に参加してからの4年間で約400ものAIアプリケーションを開発してきたという。画像処理や音声翻訳(中国語から英語、韓国語への翻訳)や音声識別、音声合成なども担う。同社のAI活用の基底にあるのは「顧客体験の最適化」だ。

3万件の保険請求の99%を当日のうちに完了できる

 平安保険は主に個人向けの保険商品を扱う。中国の国内需要だけでも膨大な案件数になることは想像に難くない。Wang氏は「どのような企業かを知っていただくために、平安保険の1日を紹介しましょう」と、次のスライドを示した。

図1 「数字で見る平安保険の1日」として示された図ライド 図1 「数字で見る平安保険の1日」として示された図ライド《クリックで拡大》

 平安保険は1億8400万人の顧客を抱える。中国の人口は約16億人とされるため、8人に1人は顧客という計算だ。1日当たりの保険問い合わせは約3万1000件だ。だがこのうち99%は当日のうちに保険金支払いの手配などの一通りの処理を完了できているという。数万の案件があっても翌日に持ち越すのは数百件程度だ。案件処理がすぐに終わるなら案件数が膨大になっても対応し切るのは難しくない。この考えを下支えするのがWang氏らAI技術の専門家だ。

 「わが社のビジョンは『世界トップクラスのテクノロジーによる個人向け金融サービス事業者として成長する』だ。テクノロジーを戦略として位置付けている」(Wang氏)

平安保険を支えるAI、データと現場の経験

 トップクラスのテクノロジーを使ったサービス開発を是とする同社は当然、研究開発予算も潤沢だ。毎年、収益の1%を研究開発に投入する予算を組んでいるという。「2018年は100億元/年ほどが研究開発予算に割かれた」(Wang氏)

 平安保険の事業概要を見てみよう。図を見ると分かるようにWang氏が所属するテクノロジー・プラットフォームは全ての事業の基盤に位置付けられる。自動車や金融、スマートシティーなどにも展開を進めている。その上の層は全てを統合してサービス提供を行うこと是としていく考えた。

図2 平安保険の事業概要 図2 平安保険の事業概要《クリックで拡大》

 基盤最下層は、信用情報スコアや健康情報、インターネット利用状況といった「外部」のデータと、金融や保険、銀行、投資などの各事業が生成した「内部」のデータを、中国国内のプライバシー保護の法令を順守した形で全て統合して扱える基盤だ。

 このデータを元に顧客のプロファイルを特定または推定し、金融商品や保険商品のレコメンドに役立てている。この仕組みがあることで、新しい顧客であっても「どのような好みを持ち、どんな商品がマッチするか」を導き出せるのだという。

 また過去に評判が良かった製品を再度レコメンドすることで商品のライフサイクルを伸ばすといった試作も可能だ。オフラインを含め、顧客に最適なチャネルを使った販売促進のアプローチを自動的に選択する仕組みも持つ。

 平安保険の「テクノロジープラットフォーム」を支えるAIの実装はどうなっているだろうか。「Ping An Brain AIエンジン」の詳細を見てみよう。

図3 「Ping An Brain AIエンジン」 図3 「Ping An Brain AIエンジン」《クリックで拡大》

 図は「Ping An Brain AIエンジン」が基とするデータと処理技術、出口アプリケーションがぞれぞれ整理されている。処理部分では、BIを高度化する目的でAIを使う。構造化されたデータを扱うBIに対して、AIを活用することで非構造化データを何らかの方法で解析し、構造化データとして扱えれば、得られる知見はより詳細で精緻なものにできる可能性がある。予測分析ではサンプル学習などを使い、リスクマネジメントに役立てる。深層学習の技術に基づいた非構造化データの解析も行っているという。

 これらの技術を組み合わせたアプリケーションは、AI開発を始めて4年ほどの間に約400のアプリケーションを構築している。

車をこすってから保険金請求と修理手配まで10分で回答可能

 ではPing Ang Brain AIエンジンを生かした保険サービスはどういう仕組みになっているか。Wang氏は車両事故問い合わせ処理を例に、圧倒的な自動化と効率化の例を示す。

 中国国内で追突事故があった場合を前提に、そこから保険会社への保険請求の手続きを例に示した。Wang氏らが問題視したのは「現在の一般的な保険請求のユーザー体験は複雑で長い」というもの。

 「例えば昼の12時に事故に遭ったとします。その場合の時間の流れを考えてみましょう。保険会社に連絡をしたら2時間後に担当者がきて状況を把握し、写真を撮って、修理や保証の手配を進めることになるでしょう。場合によっては警察の介入も必要です。保証に関しては相手方との交渉もあります。問い合わせマネジメントのユーザー体験は複雑で長いのです。そこから、修理の手配などが完了するまで、1週間くらいの待ち時間が発生します。どの修理工場で、費用負担がどうなるかといった情報もすぐには把握できません」。

保険請求体験のデジタル変革は「三方ヨシ」の設計

 平安保険はこのユーザー体験の問題を合理的かつ現代的な方法で解消する。必要なのはスマートフォンとSMSだけだ。

 「車両全体の状況が分かるよう、スマホのカメラなどを使って車両を一周撮影して、その動画を送信するだけで済むようになっている。15〜20秒くらいの動画をアップロードしてくれれば、バックオフィスでビッグデータを活用したデータ処理を行い。自動で分類します。ここでいう「分類」とは。自動車の車種や年式、パーツ、オプションの有無などです。そして損害費用の算出、賠償と修理の手配も行います」(Wang氏)

 動画を送信してからこの手配までで10分ほどで完了するという。顧客からすれば、10分後には修理の持ち込み先が確定しており、修理工場も即時で手配情報を受け取れる。保険会社も現地まで状況確認のために移動しなくてもよく、結果として少ない人員でより多くの案件を処理でき、移動交通費などの経費も大幅に削減できる。まさに顧客、取引先、自社ともに有益な方法といえる。

図4 車両保険請求の全体像 図4 車両保険請求の全体像《クリックで拡大》

ベテランが5分かかる仕事を0.145秒で

 「ほとんどの自動車は車体を14ほどのパーツに分類できます。その上、車両事故で損害を受けやすいパーツは決まっています。フェンダーやドアが損害を受ける頻度は高く、ルーフトップが影響を受けるケースはまれです。損傷の程度は『よい』『塗装が削られたレベル』『板金加工などの修理が必要なレベル』『大破』の4種類に分類すれば良い。これに車種やパーツの型番判定を組み合わせれば良いわけです」(Wang氏)

 車種判定などの画像の判定はどうしているか。顧客から送られてくる動画が高精細であるとは限らない。光の加減などで損傷が見えにくいことも考えられる。そこで、送信された動画を基に分類する際には、前処理を施す。ここでは、約50層のたたみ込みニューラルネットワークを使っているという。ここの画像処理では、反射の状況を見やすくしたりする他、「過去の修理の痕跡」も捜索するという。

 同じ仕組みは車の特徴判定にも利用する。見つけ出した特徴を国内で流通する車両の特徴データベースと照合する。

 「人力で評価する場合は、どんなにベテランでも5分ほどかかっていた処理が、コンピュータを使えば0.145秒で完了します」(Wnag氏)

図5 たたみ込みニューラルネットワーク(CNN)を使った画像処理 図5 たたみ込みニューラルネットワーク(CNN)を使った画像処理《クリックで拡大》
図6 損傷査定 図6 損傷査定《クリックで拡大》

画像分類のスピードはもはや秒もかからず

 特徴抽出の技術自体は顔認識の技術が分かればさほど難しくない。例えばヘッドライトが損傷していた場合「正常な状態ではだ円形であるはずの形状がすこしゆがんでいる」といった特徴が明らかになれば、その部分に何らかの損傷があると推定できる。これと、車種や年式、オプションなどを判定して正規の状態を比較すれば損傷レベルは明らかにできる。

 「こうした判定は、過去にベテランが見て5秒掛かっていたとしたら、コンピュータに任せることで0.15秒で判定できるようになる」(Wang氏)

 動画の車からそれぞれのパーツを抜き出して部品データベースと照合するわけだが、毎年新車種が出る上、オプション装備などのバリエーションも多い。同じ年式のものでも数千のバリエーションがある場合もある。修理の代金を算出する際には全てのパーツと価格を差出しなければならない。

 リスク管理では担当者の不正なども想定したリスク判断のモデルを構築しており、人の判断で見逃していたような不正も検出できる環境を整えたという。見逃しやすい不正とは、事故の状況と故障の状態が合理的でない場合などが考えられる。

 事故のパターンをデータベース化することで「右のフェンダーがぶつかった事故という申告なのに左のドアにも傷がある場合、事故状況を疑う」などの判断を自動化する。

図7、8、9 車種やアクセサリーなどを判定する 図7、8、9 車種やアクセサリーなどを判定する《クリックで拡大》
図10 リスク判定 図8 リスク判定《クリックで拡大》

 いまやほとんどの人がスマートフォンを使い、インターネットに接続する手段を持つ。これを保険請求の一次資料に生かせば「現地に向かう」「資料を集める」などに掛かる人手のほとんどを削減できる。大陸ゆえに現地への移動がずっと高コストであったことは、デジタル変革を推進する強力なドライバーとなったことだろう

 国も法律も異なることから、仮に日本で同様のことをしようとしても、警察などの保険会社とは別の公的機関を交えた事故証明などの必要性はあるかもしれない(が、公的機関がこのくらいの仕組みを持てばデジタル変革も推進できるかもしれない)。

 平安保険が最近できたスタートアップではない、という点は注意しておくべきだろう。ITもまだ十分でない31年前に事業を興した企業が、ほんの数年で自らを大きく変える変革を推進して、経験をタネに破壊的イノベーションを起こそうとしている点こそが重要だ。「AIを導入する」ではなく「技術でサービスを変える」という意思があればこその成果といえそうだ。

 Wang氏は平安保険成功の要因に経験と技術の両輪を挙げる。「1988年設立の平安保険なら、人間の31年間の経験をAIが学べますし、アルゴリズム専門家はAIの学習を最適化し続けられる環境を持ちます。技術特許も多数取得しており、技術資産を重視する姿勢も事業成長の推進力になっています」(Wang氏)

自動車保険での成功を別業種に横展開

 同社はこのAIを生かした保険商品を、人間や車以外にも展開する。その一つが家畜向け保険や農業保険だ。

 農地は往々にして交通の便が悪いか都市部から遠い場所にある。1口百元程度の保険に対して、移動して保険手続きを進めるのはコストがかかりすぎる。各地に支店を置いてはいるが、半日がかりで移動が必要なことも少なくないため、都市部の支店では対応できない。

 内陸部の農家の豚1頭に保険を掛けられた場合「その豚が本当に保険を適用した豚かどうか」「本当に被害に遭ったのか」を判定するのは労力がかかりすぎる。

 「AIを使った家畜の鑑別では飼育場や、飼料供給時の様子などを動画で管理する。豚は6カ月ほどで出荷するが、動画を定期的にチェックすることで出荷までの豚の状態を確認できる。同一個体かどうかは豚ならば例えばしっぽの巻き方、耳の形、模様、足の形状で判断できる。地域ごとの豚の種類も把握できる」(wang氏)

 この仕組みは保険のためだけでなく利用者側の利益にもなるようにサービスを設計してある。従業員管理や畜産計立案支援などの牧場経営支援にも役立つアプリケーションとして提供することで利用を促す仕組みだ。日々使うアプリケーションの中に保険を組み込むことで、新たな個体が生まれたら個体管理と同時にワンクリックで保険を契約できるようにする。

 同じような仕組みを医療にも生かし、へき地での医療サービス推進にも注力する。「CTスキャン画像の読影スキルのある医者を育成するには7〜8年の訓練が必要とされる。中小の地方都市ではこうした識別ができる人材がそもそもいない場合もある。こうした地域でもサービスを展開できるようになると考えている」(Wang氏)

図11 家畜識別 図11 家畜識別《クリックで拡大》
図12 家畜の画像処理 図12 家畜の画像処理《クリックで拡大》
図13 処理性能評価 図13 処理性能評価《クリックで拡大》

画像解析にはIntelのOpenVINOツールキットを活用

 OpenVINOは、インテルが提供するディープラーニング用の推論ライブラリだ。TensorFlowやCaffeなどの学習済みモデルを利用できる平安保険では毎日数百万の画像を取り込み続けており、OpenVINOは過去に蓄積した膨大な画像を含むデータ処理の速度を上げる目的で利用する。より少ないリソースでより早く処理をすすめるため、インテルの力を生かしている。1事故の画像処理するのには約4ミリ秒かかっていたのだけれどもOpenVINOを使うことで、1ミリ秒で済むようになった。

図 OpenVINO OpenVINO《クリックで拡大》

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