佐賀県の老舗呉服店「鈴花」は、全従業員が顧客DB情報を基に接客できるアプリ開発や新規サービス開発に注力し、和装需要が低迷する環境下で新たな顧客の開拓とリテンション施策をデジタル技術で達成するチャレンジを続けている。DX大賞受賞も果たした同社はどんな取り組みをしているのか。
佐賀県の老舗呉服店「鈴花」は従業員の平均年齢が61歳で、中心的な顧客も50代以上と年齢層は高いものの、デジタルトランスフォーメーション(DX)を積極的に進め、進化を続けている。全従業員が顧客DB情報を基に接客できるアプリ開発や新規サービス開発に注力し、和装需要が低迷する環境下で新たな顧客の開拓とリテンション施策をデジタル技術で活用して試行している。DX大賞受賞も果たした同社はどんな取り組みをしているのか。
本稿は2025年6月開催のイベント「デジタル化・DX推進展」での講演「老舗着物店が実現した『データで変える接客』DX成功の裏側とは」をベースに編集部で再構成した。
鈴花は創業1900年(明治33年)創業の老舗企業だ。佐賀県佐賀市に本社をかまえ、西日本中心にグループで約80店舗を展開している。同社のDXの発端は、和装小売は「モノを売るのではなく体験を売る」ことであるとの気付きだった。「着物文化は利便性とは真逆です。しかし着物を着たときの高揚感や感動は何者にも変え難いものがあります。そして、それはリアルに体験することでしか得られません」と語るのは、涼しげな夏物和装の粋な姿で登壇した同社の有田裕次氏(総務部長兼DX推進室長)だ。
「着物業界の魅力はリアルでしか提供できない価値があることです。その価値を体験していただくためには、リアルな顧客接点と、SNSやアプリコンテンツを通したオンラインの接点、さらに来店時の販売員と価値を共有する体験接点をうまく設計してロイヤルティーを高めていく必要があります。重要なのは顧客にとっての心地よさだと考えています」(有田氏)。
顧客にとっての心地よさとはなんだろうか。それをつきつめると、まずは顧客にとって最適な手法でサービスやコンテンツを提供することに行き着いた。これは実は同社が創業から125年間受け継いできた「顧客第一主義」の現代的表現に他ならないと有田氏は言う。しかし市場環境は創業当時はおろか数十年前に比べても大きく変化しており、店舗への集客も顧客の維持も従来手法ではままならないことは確かだ。
現代的な顧客第一主義とは何か。それは「バリュージャーニー型モデル」の実現だと同氏は言う。顧客との接点で得られた情報からニーズをくみ取り、顧客のライフスタイルに合わせたモノづくりをする。その情報を顧客にとって最適な手法で速やかに提供する。さらに来店を誘い来店客にはその場でしか経験できないような和装体験をしてもらい、店舗との強固な関係性を育んでいく。それが同社がめざすビジネスの方向だ。それを実現する手段としていま採用すべきなのは、デジタル技術に他ならない。従来の伝統的ビジネスを革新していくための同社DXは次のように進められた。
代表取締役社長が現在の森啓輔氏に交代した2015年、主に拠点をまたぐ社内会議にかかる移動コストの削減とコミュニケーションの活発化を目的に「Skype」「サイボウズOffice」「Chatwork」の導入がトップダウンで決定された。当時は無償で利用できたことと、各ツールおよび機能がシンプルで社内のITリテラシーに照らして適切だったことがツール選定の主な理由だった。
全国店舗の店長が集う本社での会議では毎回100万円超の交通費が当時は費やされていたという。そのコストを削減できたばかりでなく、全店舗の距離感を縮め、現場間のコミュニケーションを活発化し、会議と書類のやりとりを円滑に実行することにこれらツールが寄与した。中でも2016年発生した熊本地震による現場の混乱時に、状況把握と対応のための画像と短文によるやりとりにChatworkが活用され、スピーディーな対応に大きく貢献した。
この出来事を機に、当初は使い慣れなかった従業員もチャットを積極的に活用するようになり、BCP対策としてのクラウド活用の重要性にも気付かされた。その後、同社は「Zoom」「desknet's NEO」「Microsoft 365」などの導入(一部リプレース)を進めていった。
「このようなクラウドツールの導入が当社のデジタライゼーションの一環であり、DXの基礎となりました。同時に新しいことにいち早く取り組んで活用する企業風土の形成にもつながりました」(有田氏)
2020年に同社が導入したMicrosoft 365にバンドルされている「Power Platform」が同社のデジタル化の段階を次のレイヤーに引き上げることになる。
発端は、店舗に導入した複合機による印刷コストの増加という課題だった。それまで店舗に設置されていた白黒プリンタをカラー複合機(約100台)に置き換えたところ、想定を大きく超える量を印刷されるようになり、無駄なプリントとコストの抑制を図るため、店舗に設置された複合機ごとの印刷枚数を把握する必要に迫られた。
その使用状況可視化に利用されたのがPower Platformに含まれるノーコード・ローコード開発ツール「PowerApps」だ。これによりデータ収集と可視化が自動化され、印刷コストが削減できた。この比較的小さな成功体験が、同社のデジタル化を飛躍させるきっかけの一つとなった。
もう一つのきっかけは、和服の日の社内イベントだ。この記念日には従業員全員が着物を着るイベントが実施されてたが、コロナ禍では人数が大きく制限されることになった。それでも会社の一体感を保ちたいとの思いから、各地で撮影した写真をリアルタイムで共有する仕組みをつくった。これに使われたのがPower Platformに含まれる「PowerApps」だ。
イベント実行委員会のシステム課社員が写真投稿アプリを自作して、投稿された写真をPowerBIで閲覧、共有する仕組みが構築された。これには撮影場所の情報やスマイル分析などの遊び心も取り入れられている。この経験は、従業員にツールを使って何かをつくったり変えられたりといった体験になり、業務適用を考えられるスキルの素地をつくることになった。
こうしてデジタル技術を本格的に活用し始めた同社は、ついにビジネスそのものの変革に乗り出した。DX課題とされたのは次の3点だ。
これらの課題に対して、鈴花はどのようにデジタル技術を活用し、解決への道を切り開いていったのだろうか。
同社の従来業務で大きな課題だったのが顧客との直接接点の減少だ。営業担当者の顧客宅訪問や電話などを中心にしたコミュニケーションは、顧客との関係性を強化するメリットがある。一方で、担当従業員との関係性に依存することで、担当者が退職すればそのまま顧客も離れてしまうという、「顧客情報の属人化」という大きな課題も抱えていた。
買上げデータはあってもそこから顧客の趣味嗜好の情報は読み取れない。そこで買上げデータと顧客の属性データを合わせて管理できる顧客データ活用基盤として、さまざまなアプリやサービスが共用できる顧客DB管理プラットフォームを構築することにした。これをベースに、次のような3つの柱で取り組みが進められた。
新たな顧客接点として自社アプリの「和服らいふ」を開発した。顧客に和装関連の豆知識やおすすめお出かけスポット紹介などのコンテンツを提供する他、相談窓口機能や着物版デジタルクローゼット機能を実装した。これと連動して、保管や虫干しなどの手入れに悩む顧客向けに「きもの保管サービス」も開始している。
LINE公式アカウントを開設し、会社から顧客への情報提供と顧客から会社への意見要望の取り入れができる環境を整備した。これは単に相互間のコミュニケーション活発化にとどまらず、クラウドマーケティングツールの「Liny」を導入し、顧客の興味関心に合わせたセグメント別の情報発信を実現するなどCRMを組み合わせている。顧客データを活用することで、バースデークーポンや着物クリーニングクーポンの配布といった施策も実現した。テキストや画像、動画を使った配信コンテンツは顧客から好評だという。
3本目の柱としたのは「顧客電子カルテ」の開発だ。これは販売員がもつ記憶やメモなどの顧客情報をデータ化したものだ。業務システムの買上げデータにひも付き、顔写真や購入商品、イベント参加時の写真なども属性テキストデータに加えて、タブレットでも参照しやすい設計にした。
店舗販売員は自分のタブレットで来店した顧客の情報を参照しながら接客できる。タブレットを販売員と顧客が同時に参照しながら、顧客所有の着物の写真に実物の帯を合わせて視覚的に提案することで、購入意欲の向上につなげる取り組みも行われている。
「ある店舗の勤続40年を超える83歳のベテラン販売員もタブレットを利用しています。操作に戸惑うことはあっても、その効果を実感すると積極的に利用する意欲がわいてきます。全ての社員が顧客の購入履歴や趣味嗜好をもとにしたコーディネートを提案できるようになりました」(有田氏)。
社内体制として大きな役割を果たしたのはDX推進室の設置だ。社長直属の組織としてシステム課と密接に連携しながら、社内横断的にツールなどの実装と運用をつかさどる実行チームを構成した。技術スタッフばかりでなく店舗からもメンバーを選出し、リモート勉強会の開催などでスキルとリテラシー向上を図りながらチーム運営をしている。
顧客にもスマートフォンやタブレットなどに慣れてもらうため、各店舗でスマホ教室やLINE教室を開催し、アプリのインストールからQRコードの読み方、LINEでのメッセージや写真の送り方などの講習を頻繁に開催している。
「この各種教室が結果として新たな顧客体験を創出することにもなりました。高齢の方はスマホなどを使いこなせないことが多いですが、使いたい気持ちは大きいです。子供に操作法を聞けずにいたので講習を喜ぶ声も多く寄せられています。勉強会が当社の取り組みの定着を後押ししてくれました」(有田氏)。
以上のような取り組みが評価され、同社は2023年の日本DX対象UX部門で大賞を受賞した。顧客データを現場の店長も必要に応じて販売活動につなげる意識が生まれ、システム課以外でもPower Platformを利用してデータ分析に取り組む市民開発者が生まれているという。
「DXのゴールは、全てのビジネスプロセスが顧客のニーズに始まり顧客への価値提供で終わることです。バリュージャーニーを作り出し、常に顧客に寄り添い続ける。これこそ鈴花が創業以来大切にしてきたことです。日本特有の四季折々の行事は日本人の誇りであり、文化的アイデンティティーは地域社会やグローバル社会における共創を育みます。地域の魅力に花を添え、世界に誇れる素晴らしい希望の文化を未来に紡いでいくことは私たちの使命です」(有田氏)。
伝統を次世代に手渡す一方でデジタルを活用した新しいチャレンジをしていかなければ和装文化の衰退につながりかねない。その危機感を背景に「伝統と革新に挑戦しながら、地方の中小企業でもやろうと思えば何でもできるということを証明していきたい」と有田氏は力強く語った。
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