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「記録業務疲れ」からどう解放された? 非エンジニアが主導する介護DXの全貌

深刻な人手不足に悩む介護業界。かつて業務時間の30%を占めていた記録にかかる時間を13分の1に短縮した「やさしい手」は、非エンジニアによるアプリケーション開発や、全従業員の90%が生成AIを活用する環境づくりにどのように取り組んでいるのか。

» 2025年09月25日 08時00分 公開
[HubWorksキーマンズネット]

「1235分から94分になりました」――介護職員の計画書作成にかかる1カ月当たりの時間がこれまで13分の1に短縮されたという。生成AIの活用によってこの時間短縮を実現したのはITエンジニアではなく、訪問介護サービス大手のやさしい手の現場従業員だった。

ケア時間を圧迫していた記録業務

 介護業界は「2025年問題」に直面している。1947〜1949年生まれの団塊の世代が2025年に75歳以上となることで要介護者が増加しており、厚生労働省によると、2026年度に必要とされる介護職員数が約240万人なのに対し、2023年度は約212万6000人(常勤、非常勤の合計)と人手不足は深刻だ(注1)。

 人手不足問題に加えて、デジタル化の遅れが職員の負担を増している。やさしい手の香取幹氏(本社管理本部 役員室 代表取締役社長)は介護現場の実態について、「現場職員の業務時間の約30%が記録業務に費やされており、本来注力すべき利用者をケアする時間が圧迫されていました」と説明する。

 ケアプラン作成が個々の職員の経験に依存し、多職種間の連携不足がケア品質のバラつきを生む要因となっていることも課題だった。こうした構造的な課題を抱えていた同社は「住み慣れた家で最後まで生きたい」と願う高齢者の希望の実現に向けて、生成AIを活用した業務改革に着手した。

 業務改革の結果、生産性向上が実現しただけでなく、従業員の離職率も15%改善したという。同社が生成AI活用に取り組んだ背景と取り組みの内容を見ていこう。

現場主導で生まれた生成AIツール「むすぼなAI」

 やさしい手は1993年に創業した。売上高は約220億円で、看護師や介護職員、ケアマネジャーなどの医療や介護の専門職を中心に約6000人の従業員が働いている。

 同社は創業以来、「安らかな生活」「顧客(利用者)優先」「アセスメントと個別援助計画」「アカウンタビリティ」「相互の尊重」「社会的責任」の6つを掲げてきた。また、これらの行動指針を実現するために情報開示システム「ひつじ」を開発し、利用者に合わせた個別支援の実現を図っている。

 「この情報開示システムは私たちの事業の根幹を成すものです。生成AI活用もこのシステムの延長線上にあると考えています」(香取氏)

 やさしい手は介護記録や会議議事録、身体情報などのデータを大量に蓄積し、BIツールを活用した情報の可視化、AIツールを活用した情報の精緻化に取り組んでいる。多職種の連携という観点からも正確な情報の共有を重視している。

 今回、やさしい手が開発した生成AIツール「むすぼなAI」は、IT部門ではなく現場職員の発案で始まった。「現場の従業員から『(介護現場の課題解決に)生成AIが使えるのではないか』という声が上がり、私も同意して開発が始まりました」(香取氏)。

 やさしい手には開発経験を持つ人材が少ない中で、非エンジニアが中心になって開発することになった。これを可能にしたのが、AWS(Amazon Web Services)のフルマネージド生成AIサービス「Amazon Bedrock」だ。やさしい手は2024年3月にAmazon Bedrockの調査を開始し、同年6月に業務実装を完了させた。

 この短期間で非エンジニアがAIツールを開発し、リリース後3カ月で3000人の従業員が利用するまでに浸透したのはなぜか。

 香取氏はAmazon Bedrockを利用した開発について、「プログラミングやデータサイエンスの専門知識がなくても開発可能でした。オープンソースでドキュメントが豊富なため、自社業務へのカスタマイズが容易です」とメリットを説明した。

 やさしい手は生成AI活用に当たって「小さく始めて大きく育てる」アプローチを採用した。「自動化したい業務は大量にありましたが、ビジネス効果と開発のしやすさを重視して選定しました」(香取氏)という。現場の具体的な課題解決にフォーカスすることで、調査開始から3カ月での業務実装を実現した。テストは、同社の5900人のスタッフが6カ月間にわたって実施した。

図1 やさしい手における生成AI活用の在り方(出典:香取氏の講演資料) 図1 やさしい手における生成AI活用の在り方(出典:香取氏の講演資料)

イノベーション普及理論に基づく全社展開

 「むすぼなAI」の導入について、香取氏は「単なる技術導入ではなく、組織文化の変革を伴いました」と振り返る。同社はイノベーション普及理論を参考に「とりあえずやってみる」という考え方で各部門で85人の「AI活用イノベーター」を育成した。

 「イノベーターを応援するアーリーアダプターが生まれ、彼らがアーリーマジョリティにAI活用を推奨し、レイトマジョリティが追い付こうとする形で普及が進みました」(香取氏)。自主的な学びの場「AIカフェ」の提供や、成功事例を共有する「マイユースケースの森」の設置、全社コンテストの開催などの普及活動を実施した結果、むすぼなAIは導入後3カ月で3000人が利用するようになった。全従業員の約90%が日常的にAIを活用しているという。

「さくさく」から「わくわく」へ

 香取氏は、むすぼなAIの活用事例として訪問看護の報告書作成を挙げた。むすぼなAIの導入前、看護師は専門家であるケアマネジャー向けと利用者の家族向けに別々の報告書を作成していた。導入後は、これらの報告書を同時に生成できるようになった。

 ケアマネジャー向けの報告書には「疾患」「薬剤」「バイタルデータ」「塗布」などの専門用語が使われた端的な要約されている。一方、家族向けの報告書では専門用語を使用せずに「左目の周りが腫れていました」「痛み止めのためにジェルを塗りました」のような非専門家に分かりやすい言葉が使われている。

図2 「むすぼなAI」による訪問看護の報告書作成(出典:香取氏の講演資料) 図2 「むすぼなAI」による訪問看護の報告書作成(出典:香取氏の講演資料)

 BONXのイヤホンと連携した「書かない介護記録」機能では、職員の音声が自動で文字起こしされ、AIが介護記録書を生成する。「インカムで利用者と対話した内容を生成AIが文字起こしし、そこから介護記録やケアプランへ自動変換します。これにより現場従業員は利用者のケアに集中できるようになりました」(香取氏)

 むすぼなAIの導入効果について、香取氏は具体的な数値を示した。介護支援専門員(ケアマネージャー)の計画書作成業務では、モニター調査により月間作成時間が平均1235分から94分へと13分の1に短縮された。

図3 「むすぼなAI」による導入実績(出典:香取氏の講演資料) 図3 「むすぼなAI」による導入実績(出典:香取氏の講演資料)

 利用者100人規模の施設では、1カ月当たりの記録作成業務にかかる時間が約1万8000分から約1500分へと約12分の1に圧縮された。全体で見ると、記録業務にかかる時間は約83%削減、計画書作成にかかる時間は約75%削減、報告資料作成にかかる時間は約93%削減を実現した。この結果、直接的なケア時間は25%増加したという。「業務効率化はあくまで手段であり、最終的な目標は介護の質の向上です」と香取氏は強調する。

 労働環境面では「残業ゼロ」を達成する拠点が増加し、従業員の離職率は約15%改善した。「生産性向上を意味する『さくさく』から、一人一人の思いに近づいたサービス提供が実現可能になる『わくわく』への転換が起きました」(香取氏)

「技術と人のぬくもりが融合した新しい介護のかたち」

 介護記録には個人情報が含まれることから、むすぼなAIにはセキュリティ対策も実装されている。今後、同社は「クラウド×生成AI」を中核に、社会福祉法人のDXをサポートするためのSaaS展開やIoT機器と生成AIとの連携強化、「Amazon Bedrock Agents」を利用した自律型総合介護窓口などを計画している。

 同社はロボットタクシーや配達ロボット、AIスピーカーなどの先端技術と生成AI基盤を連携させ、地域包括ケアシステムと融合した介護の在り方を視野に入れている。香取氏は最後に「技術と人のぬくもりが融合した新しい介護のかたちを創造したいと考えています」と展望を語った。

図4 やさしい手の展望(出典:香取氏の講演資料) 図4 やさしい手の展望(出典:香取氏の講演資料)

本稿は、Amazon Web Services(AWS)が開催した「AWS Summit Japan」(2025年6月25〜26日)でやさしい手の香取幹氏(本社管理本部 役員室 代表取締役社長)が「非エンジニアが実現! 3000 人規模の介護×生成 AI 革命」というテーマで講演した内容を編集部で再構成したものです。

(注1)介護人材確保の現状について(厚生労働省)

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