メディア

「インクルーシブな社会」を本気で作る人たち――五感とAIは人類をどう変えられるか

移動の自由をどんな人にも。昭和の時代にはSFの話だった世界を実現しようと複数の企業や研究機関が法人を立ち上げた。3カ年で形を作るという。視覚障害の困難をコンピューターが感覚器官と視覚から支える、現実的なアイデアの話を聞いてきた。

» 2020年02月07日 08時00分 公開
[原田美穂キーマンズネット]

人間が「何となくぶらぶら」外出するために必要な情報処理の重さ

IBMフェローで米国カーネギーメロン大学客員教授の浅川智恵子氏

 目が見えない中で気軽に外出することは「ありえないこと」だという。視覚に障害がある方々にとって、思い立って目的もなくぶらぶら外出する楽しさを得ることは難しいのだ。

 アルプスアルパイン、オムロン、清水建設、日本IBM、三菱自動車が「次世代異動支援技術開発コンソーシアム」を設立した。インクルーシブな社会を実現する技術を持ち寄り可能性を検討する考えだ。

 プロジェクトの発端はIBMフェローで米国カーネギーメロン大学客員教授の浅川智恵子氏が2017年に着想したAI(人工知能)アシスタントだ。視覚に障がいを持つ浅川氏自身の体験から着想を得たアイデアだという。コンピュータが支援できる感覚器官は大きく拡大した。聴覚、触覚に加え、今ではAI技術の進展によりコンピュータは視覚と認知機能も獲得しつつある。

 浅川氏は中学生の時、プールでのけがが原因で視覚に障がいを受けたという。その後、IBM基礎研究所に勤めてからは一貫して情報アクセシビリティーの課題解決をテーマに研究に従事してきた。今までも「デジタル点字」システムや、Webサイトの情報を音声で読み上げる「IBMホームページリーダー」などを開発してきた。ホームページリーダーは、視覚に障害があってもWebの広大な世界に広がる情報にアクセスできるツールとして日本だけでなく世界各国で評価されている。こうした長年の実績が評価され、2009年、日本人で初めてIBMフェローに抜擢された他、本間一夫文化賞や米国女性技術者団体WITの殿堂入りも果たした。2020年2月4日(米国時間)には米国盲人協会 (AFB) から日本人で初めて「ヘレン・ケラー賞」授与された。

浅川氏のヘレン・ケラー賞受賞を知らせるカーネギー・メロン大学のWebサイト

 「文字や音声によって、情報のアクセシビリティーは格段に良くなった」と浅川氏は語る。だが同時に、まだ解決できていない問題がある、と指摘する。視覚障がい者にとってアクセシビリティーを阻害するもう一つの要素は移動だ。目が見えない中で気軽に外出することは「ありえないこと」――冒頭で引用した発言は浅川氏自身が自身の体験として感じたものだ。

 「今までは今いる場所の周辺にどんな情報があるかといった情報にアクセスする方法がありませんでした」(浅川氏)

私たちが発する「やあ、こんにちは」には何通りの解釈があるか

 すれ違う人が携帯電話で通話相手に「やあ、こんにちは」と発言したとき、われわれは音声の他に、スマートフォンを持っているかどうか、こちらに目を合わせているかどうか、知り合いの顔かどうか、などの資格情報をもとに、自分が返答すべき発言かどうかを瞬時に判断できる。だが、視覚情報なしにそれがどういった文脈で発生されたコトバなのかを判断することは難しい。歩いた先に階段や障害物があるかどうかといった危険を察知することも難しい。

 この課題を解決するために浅川氏がまず選んだのがスーツケース型のAIナビゲーションシステムだ。もちろん、スーツケースである必然性があるわけではなくプロトタイプで研究する上で最も適した材料だったようだ。常にセンサーやカメラを駆動することから、機材の安定性やバッテリーの持ち、コンピュータの能力が相応に求められることもあるが、浅川氏自身の経験も反映されている。

 「海外出張を多くこなす中で、スーツケースを進行方向に向かって手前に持って歩けば事前に障害物やリスクを察知できる、ということを経験的に学んだ。違和感なく利用できる点も好ましい」(浅川氏)

プロトタイプ実機(左)と実装イメージ(右)

 技術を検討するフェーズで最も実装や検証に適した素材がスーツケースだったということだろう。技術的に進展し、実用化となれば「小型化したり別のモビリティとしての実装も十分検討できる。まずは自動運転や自動車開発の研究で培ったフェイルセーフ設計のノウハウやバッテリー小型化などで協力したい」とコンソーシアム正会員である三菱自動車工業の原 徹氏(車両開発技術本部 本部長)も可能性を探る。将来的にはモビリティサービス開発にも知見を生かす考えだ。

 コンソーシアム理事で清水建設の石川 裕氏(専務執行役員技術研究所長)は、これに先行する「コレド室町」での屋内即位技術を活用したナビゲーション技術やそのロボティクス実装の技術で協力する。コレド室町では「インクルーシブ・ナビ」というBLE(Bluetooth Low Energy)を使ったビーコンによる測位技術を既に活用している。

 アルプスアルパインは触覚フィードバックインタフェースの開発で協力する。触覚フィードバックに対する人間の認知に関する研究なども進める計画だ。「どの強さ、どのタイミングの通知に、どのような感情を持つかはインタラクションの重要な要素になる。実証実験などを通じてこうした知見を獲得する」コンソーシアム正会員のアルプスアルパイン技術本部開発部 主幹技師 白坂 剛氏)

 オムロンは長年培った顔認識の技術を提供する。「顔認識の課題は、近づいてくる『知り合い』とどう自然にコミュニケーションをとれるかだ。認識範囲にある顔全てがコミュニケーションを取って良い対象というわけではない。(知り合いかどうか、話しかけてよいかどうかといった)機微を察知して早いタイミングで伝達する必要がある。この処理を自然に実現するには大きなリソースをかける必要がある。この課題を小型化、省電力化をどう折り合いを付けるか、といった課題にも挑戦していく」(コンソーシアム理事のオムロン 技術・知財本部副本部長 研究開発センタ長 竹内 勝氏)

 日本IBMは「IBM Watson」の対話型AI技術や行動・環境認識技術、クラウド技術を提供する。コンソーシアム代表理事で日本IBM 東京基礎研究所所長の福田剛志氏はコンソーシアムの今後の活動について、「2020年に技術開発を進め、2021年に実証実験を、2022年には社会実装構想を固める計画」と説明する。「この3年間は視覚障害者支援を前提に活動を進めつつ、ポテンシャルの高い市場を探っていく計画。移動の困難さは視覚障がい者に限った問題ではなく、例えば病院内のモビリティ、車椅子によるナビゲーションなども考えられる。より広く課題を抱える人たちを助けていきたい」(福田氏)

 技術的には開発途上の部分も多いが「まずは屋内ナビゲーションの実現を目指す。将来的には屋外の移動支援も視野に開発を進める」としている。

 昨今のこうした取り組みでは「ローカル5G」による実装を押し出す企業も少なくない。「将来的にはローカル5G、5Gを使う可能性を否定するものではないが、今インクルーシブな社会を実現しようと考えたとき、これらの技術はまだ十分にこなれてはいない。社会実装を実現する目的から考えると現段階での測位技術は既に実績のあるBLEによるビーコンが現実的。日本IBMとはBLEビーコンによる測位の最適化や効率化にも取り込んでいる」(石川氏)

浅川氏(中央)を囲んで。左から日本IBM 東京基礎研究所 福田氏、オムロン 竹内氏、清水建設 石川氏、アルプスアルパイン 白坂氏、三菱自動車 原氏。全員がSDGsのバッジを付けて参加した

 コンピュータが目の機能を獲得したことで、AIはSFの世界のことではなく現実の課題を解決する道具として認識されるようになった。浅川氏らの活動は、過去できなかったこと、無意識にあきらめていた課題に再度解決を挑むきっかけにもなりそうだ。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

会員登録(無料)

製品カタログや技術資料、導入事例など、IT導入の課題解決に役立つ資料を簡単に入手できます。