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花王DX事例 経費AIが年5万5000時間と約1.5億円を削減した道のりDX必勝の組織作り

花王は美容部員の通勤費、交通費精算を自動化するシステムを導入し、導入後約1年で5万5000時間と約1.5億円のコストを削減する見通しだ。プロジェクトの軌跡とシステム導入を必勝に導く組織作りについて聞いた。

» 2022年07月05日 09時00分 公開
[吉村哲樹オフィスティーワイ]

 DX(デジタルトランスフォーメーション)を掲げてシステム導入を進めようにも、「上長が認めてくれない」「上長が判断できない」「提案がカニバル」といった問題によって取り組みが進まないことがよくある。必要に応じてベンダーと連携し、社内で情報を蓄積、共有しながらスピーディーにIT施策を打ち出すにはどうしたらよいのか。

 グループ企業を多数抱える花王は、長年にわたりこの問題に取り組んできた。同社はDXを、顧客体験を向上させるための「Externa DX」と、働き方を改革するための「Internal DX」の2通りに定義し、一気通貫で推進する体制を構築して次々とIT施策を打ち出している。

 その一つが、AI(人工知能)を使った通勤費・交通費の自動精算システムだ。花王のあるグループ企業には約6000人の美容部員が在籍する。百貨店やスーパーの化粧品売場など、複数の店舗を担当する美容部員もおり、煩雑化する通勤費や交通費の申請作業が課題だった。

 システムの導入に2019年から取り組み、2021年4月に稼働を開始し、現時点で年間5万5000時間の業務削減と、約1.5億円のコスト削減を見込んでいる。グループ企業も巻き込んだDXにおいて「スピーディーな導入」と「確実な効果創出」を実現する花王の"必勝法"とは。

6000人の美容部員の経費申請、チェックが負担に

 「2019年時点、花王のグループ会社の大半は旧システムの利用をやめていたが花王ビューティブランズカウンセリング(以下、KBBC)だけは利用を続けていた」。そう語るのは、KBBCのAI自動精算システム導入をとりまとめる花王 コーポレート戦略部門 先端技術経営改革部 部長(デジタル運用担当) の内山徹也氏だ。

 そこで花王は、既存の経費精算システムに代わる新システムの導入検討を2019年に開始し、パッケージ製品を中心にさまざまな製品を比較検討した。しかし、旧システムは同社の経費精算業務に合わせてさまざまなアドイン機能を盛り込んでいたために、要件に合致する製品はなかなか見つからなかった。

 「旧システムは公共交通機関を使った通勤、移動だけでなく、マイカー通勤などさまざまな交通手段に対応していて、同様の機能を備えたパッケージ製品はなかなか見つかりませんでした。従業員の経費精算業務を簡略化するために、旧システムにはあらかじめ通勤経路をデータベースに登録しておく機能も実装していましたが、新システム移行に伴ってデータベースを再構築し、従業員に経路を再登録してもらうことも難しいと感じていました」(内山氏)

 加えて、花王はデジタル技術を活用した業務効率化に取り組んでおり、通勤費・交通費の申請や承認、チェックのような機械的な作業をなるべく自動化する希望もあった。

 KBBCには約6000人の美容部員が在籍し、百貨店やスーパーの化粧品売場に出向いて勤務している。日によって異なるお店に出向くケースも珍しくなく、自ずと通勤費や交通費の申請作業が煩雑になる。これらの申請内容を承認、チェックする上長や経理部門の負荷も高く、「デジタルの力によって、これらの作業を何とか減らしたいと考えていました」と内山氏は語る。

通勤・移動の経路と掛かった費用をAIが自動的に判別

 そこでまず目を付けたのが、経費申請の承認、チェック作業の効率化だった。「最新のAI技術を使えば、承認・チェック作業のかなりの部分を自動化できるのではないか?」――。こうした仮説のもと、さまざまな製品・サービスを比較検討した結果、同社が行き着いたのが、AIで経費申請の内容を自動チェックする「SAPPHIRE(サファイア) 経費精査」だ。

 SAPPHIRE 経費精査は、2016年に設立されたAI関連のベンチャー企業Miletosが開発したSaaS。従業員が提出した経費申請の内容と、その従業員の住所や定期券情報、勤務先の入退館記録、勤怠情報などを突き合わせて申請内容の正当性を評価し、リスクの高いものを自動的に洗い出す。

 「この仕組みを導入し、人の目で申請内容をチェックする前にAIによる自動チェックをかけることで、不正申請をより確実に検出できると考えました。人はAIが『リスクあり』と判断した項目を重点的に見ればよいので、チェックの効率化にもつながります」(内山氏)

 早速、2019年10月から数カ月間かけてMiletosのバックアップを得ながらSAPPHIRE 経費精査を評価した。過去の申請内容をSAPPHIRE 経費精査でチェックし、その結果が過去に人手のチェックの結果とどの程度合致するかを検証した結果、「95%」という高い精度を示したという。「これだけの精度があれば実務にも十分耐え得る」と判断した内山氏だったが、ここで新たなアイデアが浮かんだ。

 「これだけ高い精度が達成できたということは、AIが各種データを基に導き出した経路・経費と、実際に従業員が申請した経路・経費とが、かなり高い確率で合致していることを意味しています。であれば、いっそのことAIが導き出した経路・経費が一応は正しいものだと信頼すれば、従業員による申請作業も能率化できるのではないかと考えました」(内山氏)

 一般的な通勤費・交通費申請のシステムでは、通勤や移動の経路と、それにかかる費用を従業員が1つ1つ登録する必要がある。しかしAIが自動的に導き出した経路・経費の内容を正とするならば、従業員はその内容をざっとチェックした上で、間違っている部分のみを修正すればよい。頻繁に通勤・交通費を申請するKBBCの美容部員にとっては、業務効率化の効果がかなり期待できる。

年間5万5000時間の業務削減を達成できる見込み

 こうして花王とMiletosの二人三脚による「SAPPHIRE 経費精査のAIエンジンを用いた通勤費・交通費精算自動化システム」の開発が始まった。Miletos 代表取締役社長兼CEO 朝賀拓視氏によれば、開発時はAIの精度向上とともに「エンドユーザーにとっての使い勝手」を極めて重視したという。

 「花王様からは『極力ユーザーに手間暇を掛けさせたくない』という要望をいただいていました。AIが導き出した申請内容をユーザーが参照し、修正する画面も、極力分かりやすいデザインを心掛けました。また、KBBC様の美容部員の方々の行動様式をヒアリングし、どのような情報を使えばより経路予測の精度が高くなるのか、試行錯誤を繰り返しました」(朝賀氏)

図1 SAPPHIREのユーザー画面(出典:Miletosの資料)

 最終的には実務に耐え得るだけの精度を達成できたため、2021年4月からKBBC全社で本格運用を開始した。

 システムの仕組みは次の通りだ。まず、従業員の移動経路をAIが割り出せるよう、従業員の自宅および勤務先の位置情報を登録する。次に、従業員一人一人の店舗の入退店ログやオフィスの入退館ログ、シフト情報などのデータを基に、実際にたどった通勤・移動ルートを割り出す。後はこの情報を地図上にマッピングして、最適な交通機関の利用ルートとその運賃を割り出す。

 こうしてAIによって導き出された経路・経費の情報は、月に1回まとめて従業員に提示される。従業員はその内容を確認し、もし実際の経路・経費と異なる内容があった場合はシステムの画面上から手動で修正する。あとはボタンを1回押下するだけで、1カ月分の申請処理が全て完了する。

 こうして登録された1カ月分の申請内容は、次に上長による承認処理と経理部門によるチェック処理に回される。ここでは従業員が手動で修正した内容だけがハイライト表示されるため、この部分を重点的にチェックすることで承認・チェック処理を大幅に効率化できる。

 「人による承認・チェックのプロセス自体は、この仕組みを導入した後も基本的に変わっていませんが、AIが重点的にチェックすべき項目を提示してくれるため作業負荷は大幅に減っています。一方でチェックの精度は、従来の人によるチェックに加えてAIによるチェックが新たに加わったことで、むしろ向上しています」(内山氏)

 こうして「現場の従業員」「承認者」「経理担当者」の三者全てがメリットを得られる仕組みを導入したことで、冒頭でも紹介したように年間5万5000時間の業務時間短縮の効果を達成できる見込みだという。

図2 SAPPHIREの概要(出典:Miletosの資料)

チャットbotによる問い合わせ自動対応で現場定着を図る

 使い慣れたシステムをリプレースするとなると、不安になるのが従業員の学習負荷だが、この新システムは驚くほどスムーズに定着した。背景にはユーザーの学習負荷をなるべく軽減させるためのさまざまな工夫があったという。

 「経費精算システムはもともとユーザーが自ら望んで使うものではないので、その変更はユーザーにとって大きな負担になります。なるべくユーザーの負担を減らすために、導入前に説明会を開催し、FAQを充実させるなど、新システムを現場にスムーズに定着させるための施策を打ちました」(内山氏)

 その中でも最も効果的だったのが、チャットbotの導入だったという。花王ではかねてよりFAQを自動化するチャットbotを導入していたが、これを横展開し、新システムに関する問い合わせをチャットbotで自動的に回答する仕組みを導入した。システム導入後1カ月間で約6万4000件にも上る検索が行われ、そのうち86%はチャットbotでの回答で対応を完結できた。また、このチャットbotだけでは解決できなかった質問のみをメールで個別に受け付けるようにしたところ、メールによる個別質問はわずか830件、全体の1.3%にまで抑えられた。

図3 チャットbotによる対応件数 (出典:花王の資料提供)

 現場定着のための仕掛けをあらかじめ準備していたこともあり、現在ではこの通勤費・交通費精算システムはKBBCですっかり利用が定着している。またMiletosではその後、このプロジェクトで開発した仕組みを「SAPPHIRE 近郊交通費」として製品化し、花王以外の顧客にも広く提供している。

 朝賀氏は本プロジェクトの成果について、「花王様と一緒に作り上げたこの仕組みをより多くの企業様に使っていただくことで、ゆくゆくは日本の産業全体の生産性向上に寄与できればと考えています」と述べる。また内山氏も、この仕組みの適用範囲を社内でさらに広げていくことで、グループ全体のDX推進を加速していきたいと抱負を語る。

 「今後はKBBC以外の部門やグループ会社にもこの仕組みを導入して、経費精算周りのルーティンワークからより多くの従業員を解放していきたいですね。最終的には『人がやらなくてもいい仕事』は機械に任せて、全ての従業員が『人にしかできない仕事』に注力できる働き方の実現を目指していきたいと考えています」(内山氏)

花王が考える、DXを成功させる組織の在り方

 新システムをスムーズに導入し、確実な効果を創出できた花王だが、その成功の鍵はDX組織の在り方やDX推進の方法にも隠されている。

 「システム導入時の壁として『上長が認めてくれない』という権限の問題、『上長が判断できない』という知識の問題、そして「社内の部署同士で提案がカニバる」という情報共有の問題が存在します。花王では先端技術経営改革部が、システム導入の意思決定やシステムに関するさまざまな情報の蓄積、蓄積した情報の全社展開といったDX推進をとりまとめる役割を担うことで、情報システム部門などと連携してスムーズにシステムを導入できる体制を作っています」(内山氏)

 今回、経費チェックAIエンジンを通勤費・交通費精算自動化に転用するアイデアを素早く実行できたことや、社内で利用していたチャットbotを新しい経費精算システムのFAQに素早く横展開できたことも、この体制によるところが大きい。

 「DX推進においては、ただシステムを導入すればよいのではなく、システム導入のプロセス自体を変革して、必要な施策を必要な時に実施できなければなりません。そのためには、人や組織もトランスフォーメ―ションしなければならないのです」(内山氏)

図4 システム導入を成功させる組織の在り方(出典:花王の資料提供)

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