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ガリガリ君の赤城乳業が決めた「S/4HANA Public Edition」への移行 Fit to Standardへの覚悟を聞いた

「ガリガリ君」をはじめとした氷菓、アイス製品を製造、販売する赤城乳業は、SAP ERPの保守期限に対して決断を迫られていた。同社は検討の末、SAPのクラウド版ERP「SAP S/4HANA Cloud Public Edition」への移行を決断した。どのような検討が行われたのか、Fit to Standardをどう実現しているのかを聞いた。

» 2024年07月17日 07時00分 公開
[指田昌夫キーマンズネット]

 日本で2000社以上が利用しているといわれるSAPのオンプレミスERP「ECC6.0」。最長でも2027年末に保守契約を終了することによる更新ラッシュは、SAPの「2027年問題」として知られている。迫る期限を前に、多くの企業は方針を決めて作業に取り掛かり、すでに完了しているところも多い。

 問題回避には幾つかの方法がある。ERPのバージョンアップによる保守期限の再延長、SAP社が提供するクラウド版ERPへの移行、そして他社ERPへの移行だ。

 ただ、ERPは会計をはじめ企業の根幹を担う基幹システムで、問題が起きれば最悪の場合業務停止の可能性もあり、事業に直接的な影響が生じる。つまりERPの更新は経営上の重大なリスクであり、どういうシステムを選び、乗り切るかは大きな意志決定を伴う。

 「ガリガリ君」をはじめとした氷菓や、アイス製品を製造、販売する赤城乳業も、SAP ERPのユーザーであり、迫る保守期限に対して決断を迫られていた。同社はECC6.0のバージョン5.0を利用していたため、保守期限は2027年ではなく2025年末と迫っている。

 同社は検討の末、SAPのクラウドERP「SAP S/4HANA」(以下、S/4HANA)のパブリッククラウド版「Public Edition」への移行を決断。現在移行に向けた開発の最中にある。移行プロジェクトをリードする、同社の吉橋高行氏(財務本部 情報システム部 部長)に、S/4HANAを選択した理由や、取り組み状況、Fit to Standardを実現する工夫を聞いた。

アイス市場の季節性によるコストをERPで明らかに

 吉橋氏はプロパーで赤城乳業に入社後、製造や開発系、営業系、財務の各部署を歴任。各部署を知る経験を買われて、2011年に全社基幹システム刷新の開発リーダーに任命された。

 それまでは、会計、生産などの各部署のシステムが、それぞれ別のシステムで組まれていた。それをスプレッドシート経由でつなぎ、決算を作るプロセスだったため、全社の情報を本社部門が入手するまでに時間がかかっていた。

赤城乳業 吉橋高行氏

 「当社はそのころ、売上高が300億円に迫ろうというタイミングでした。それまでは、手作業を含めた業務プロセスで何とか回っていました。しかし、300億円を超えてくると、さすがにデジタル化が必要だろうとなり、基幹システムを統合したERPという大きな箱に情報を打ち込む形にすべきと考えました」(吉橋氏)

 吉橋氏が基幹システムで情報の一元化を目指した背景には、アイスメーカーとしての特殊な市場環境が存在する。

 「当社の売り上げは夏に巨大なピークがあり、その後急降下するジェットコースターのような推移を繰り返します。夏場のピークに合わせて生産キャパシティーを設定すると冬場はほとんど稼働しません。ですから春先から在庫を溜めて、夏のピークに備えることになります」

 アイス製品には賞味期限が存在しない。理論的には在庫をたくさん抱えれば、ピーク需要に対応できる。だが話はそう単純ではない。在庫は冷凍保存する必要があり、倉庫代と燃料代などのコストが発生するためだ。同社の製造原価の約2%として毎月積み重なるため、需要に合わせた生産や販売、在庫といったPSI(生産、販売計画、在庫)のコントロールが収益確保にとって極めて重要だ。ERPの導入では、この管理の実現が大きなテーマだった。

2014年に導入したSAPの更新で目指したこと

 ERPの選定に当たり、同社では国内外15社ほどのベンダーに提案を仰ぎ、選定を開始した。最終的にSAP ERPを選定したが、吉橋氏は「システムは国産を基本に考えており、当初は全くSAPを選ぶ気はなかった」と話す。

 「SAPは当社の規模にはコストが合わず、運用も難しいという印象がありました。しかし実際に見積もりをとってみると、われわれの目指す業務プロセスに合うことが分かり、コストも納得できる水準でした」

 こうして同社はSAP ERPを採用し、3年後の2014年に稼働した。ERPによる業務プロセスの統合による効果はすぐに表れた。

 「SAP導入で一番大きかったのは、商品別に月次の原価が出せたことです。以前は原材料のみの原価率管理がメインでしたが、労務費や経費を含めた、商品別の原価を細かく知ることが重要でした」

 実際、春先に大量に在庫を抱える際のコストが見えるようになった。「『在庫が何百万ケースあります』と言うのと、『今、資産として百億円眠っています』とでは、経営陣の目の色がまるで違ってきます。コストを可視化したことで、社内の管理体制がより厳格になり、考え方も大きく変わりました」

 SAP導入による情報の一元管理で、同社の経営課題の解決に向けて前進できたことは間違いなかった。しかし、システム導入に際してかなりのカスタマイズを加え、そのアドオンが後の移行で課題となった。

 「営業から『これをやらないとお客さまに迷惑が掛かるよ』といわれると、殺し文句のようなものでアドオンを入れなければいけなくなります。また、商品の発注管理や流通の実績管理などは、当社のプロセスに合わせるためにSAPの開発言語であるABAPを使って独自にカスタマイズを加えていました」

 特に当時は、SAPのGUIに対して扱いにくいというという声が多く、コストをかけてでも開発しなければいけない状況だった。

パブリッククラウド版S/4HANAを選択した理由

 こうしてSAP ERPが稼働してから10年を迎える現在、次世代のシステム開発を進めているが、その検討は数年前にさかのぼる。更新の理由は、第一にはSAP ERPの保守期限の問題だったが、データセンターでシステムを運用しているサーバなどのハードウェアも、数年後には更新しなければいけないという事情もあり、クラウドを前提に次世代システムの検討に入った。

 「今回のERP選定に際しても、当初は複数のベンダーとお話ししました。しかし国内の主要なERP製品はロードマップ的に将来展望が描けないものも多く、すぐにSAPを含む数社の提案に絞られました。そして、これまでの実績からSAPのERPを採用することに決めました」

 ただし、SAPのERPを使う場合、これまでのECCをプライベートクラウドに載せて利用する形態「SAP S/4HANA Cloud Private Edition」と、パブリッククラウドでS/4HANAを利用する「SAP S/4HANA Cloud Public Edition」(以下、S/4HANA Cloud Public Edition)の2つが存在する。どちらを選ぶべきか、吉橋氏は社内の意見も聞きながら検討を進めた。

 「社内からはECCのインタフェースをそのまま使えるプライベートクラウドを支持する声が大きかったのは事実です。移行に関して業務プロセスを変える必要もないため、情シス部門も現場も、作業量が少なく済むというメリットもありました。ただし、プライベートクラウドへの移行は、コストが非常に高いことがネックでした」

 もう一方のパブリッククラウドは、経営コンサルティングファームのフリーダムが提案していた。こちらはパブリッククラウドを使うため、システムコストは大幅に安かった。しかし、業務プロセスをS/4HANAに載せるための再定義(BPR)が不可欠で、業務現場や情シスともに業務負担が発生する。吉橋氏は、これらの中で、システムの構成が決め手となりフリーダムの提案を採用したと振り返る。

 S/4HANA Cloud Public Editionは、可能な限り標準機能を使用する「クリーンコア」をコンセプトにしたクラウドERPだ。カスタマイズが必要な部分は、コア周辺のアプリケーションとのAPI接続で実現する「Side-by-Side開発」が基本となる。

 フリーダムの提案では、ERPコアとの接続部分に、国内で定評ある連携ツールである「ASTERIA Warp」を使用し、他のアプリケーションとの接続を確保している。独自の開発が必要な部分については、ノーコード開発ツールである「OutSystems」を使うことで、内製化を見据えた開発環境を実現する構成だ。

 「ASTERIA Warpについては、非常に安定性が高いEAIツールと認識していました。OutSystemsは未使用でしたが、かなり高度な開発をできるツールと分かり、この構成で進めてみたいと考えました」

 ちょうど、フリーダムが携わっている同様のERP移行案件が進んでおり、吉橋氏はその企業に出向いて実際にプロジェクトの進行状況を確認した。そして、これなら自分たちにもできると考えた。

 「単純にコストや業務負荷を見るだけでなく、われわれは将来も安心して使えるシステムを作りたいと考えました。多額の費用を払ってカスタマイズしたERPを使い続けるよりも、コアのシステムをクリーンにしておきたいと思ったのです。リスクはありましたが、経営層に挑戦させてほしいと願い出ました」

 この提案を経営陣が了承し、2023年11月、プロジェクトは正式にスタートした。

できることを全て盛り込むと無理が出る

 ERPをオンプレミスから一気にパブリッククラウドに移行するケースは多くない。挑戦的なプロジェクトではあるが「単にリスクに飛び込むだけのチャレンジではない」と吉橋氏は話す。

 「製造業にとって、製造部門がノンストップで動くことは最重要事項です。そのため、当社の製造系のシステムは、オンプレミス時代からSAPとは切り離して、製造に特化した管理システムで動かしています。もし、製造部門のシステムも含めたクラウド化だったら、パブリッククラウドへの移行はしていなかったと思います」と吉橋氏は言い切る。

 ERPによって財務情報は統合できていたものの、もともとSAPが担っている部分が比較的軽かったことが、パブリッククラウドへの移行を後押ししたことは間違いなさそうだ。

 「プロジェクトを立ち上げるとあれもこれもと欲張りすぎて、ツールの機能や、それを開発する人に高い負荷をかけてしまうことがあります。そうならないよう、開発の領域を絞ることもプロジェクトリーダーの仕事だと思います」

 同社のERP移行プロジェクトは、2026年1月の稼働に向けて進んでいる。取材した2024年6月の段階では、各部門の業務プロセスを確認して、開発要件を固める作業を進めていた。

アジャイル開発でFit to Standardを貫く

 本プロジェクトは、同社として初めてアジャイル開発手法を採用していることも新たな挑戦となっている。吉橋氏は、「これまでウォーターフォール型の開発に慣れていたため、『スクラム』『スプリント』などアジャイル開発特有の用語を勉強するところから始めています。各部署の要件を反映させた開発を、画面を見ながら進めるスプリントの段階に7月に入るため、開発はここからが本番です」と語る。

 開発プロジェクトの組織には、アジャイル開発に長けたフリーダムのメンバーが要所に配置されており、赤城乳業の開発メンバーとともにチームを構成している。現場の意見を聞きながら開発を進めても、基本は標準に合わせる=Fit to Standardの方針を貫かなければいけない。吉橋氏は、SIerの存在がFit to Standardを守る後ろ盾として重要と話す。

 「これまでのSIerの行動基準は、顧客の希望を全て聞き入れ、それを実現するために何でもするというものでした。これが過ぎると何でも開発することになり、発注側の追加コストが次々と生じます。フリーダムはブレることなく『ベストプラクティスに合わせましょう』と粘り強く進めてくれるので助けられています」

フリーダム 北村順司氏

 これに対してフリーダムのビジネスインテグレーション事業の責任者である北村順司氏(マネジングディレクター)は、「Fit to Standardの実現には、むしろお客さまの覚悟が重要です。業務を標準に合わせると決めて現場を説得する必要がありますが、これはSIerにはできません。社内のプロジェクト担当の方が強い意志で標準化を推進していることが、順調に進んでいる理由だと思います」と答える。

 ユニークなのは、前述したフリーダムが手掛ける他社の開発チームと、吉橋氏をはじめとする赤城乳業の開発メンバーが、相互に情報共有をしながら、開発を進めている点だ。これについて吉橋氏は、次のように話す。

 「どちらの会社も、プロジェクトの目的はERPをクラウドに移行してシステムをしっかり動かすことです。互いにゴールは同じ『非競争領域』だと思っています。一方、同時に同じことをしているわけですから、相手の会社がトラブルになれば、当社も同じトラブルに見舞われます。だとすればできる限り情報を共有しながらリスクを回避するほうが得策です。幸い、相手の会社さんも同じ考え方だったので、密な連携ができています」

 ターゲットを定め、合理的な判断で着実な開発を進める赤城乳業のERPクラウド移行プロジェクトは、ここから開発が本格化していく。

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