辞表を出したのは、社内で唯一ITが分かる人だった――。パスワードも、契約先も、その人の頭の中にしかない。中小企業のIT支援を手掛ける専門家に、そこから実際に起きたトラブルと、こうした状況に陥る企業の共通点を聞いた。
「これは単なるフィクションで、自社では起こり得ない」と感じた人もいるかもしれない。だが、こうした事例は決して特殊な企業だけの話ではない。実際、中堅・中小企業では、1人または少数の情報システム担当者や、PCに詳しい兼務担当者が社内システムの運用・管理を担っているケースは少なくない。
その担当者が退職すると、混乱は段階的に広がる。まず表面化するのは、管理者パスワードが分からない、多要素認証(MFA)の認証先が退職者の私物スマートフォンに設定されたままになっている、といった権限管理の問題だ。やがて、入退社に伴うアカウント発行やPCの手配などの日常業務が滞り、障害が発生してもシステム構成が分からず復旧できない事態に発展することもある。後任の採用には3〜6カ月程度かかることが多く、その間もリスクは積み重なっていく。
こうした「ひとり情シスの退職」は、どの程度起きているのだろうか。中小企業向けにITコンサルティングを手掛けるBTNコンサルティングの亀田氏によると、従業員数十人規模の企業だけの話ではない。数百人規模の企業でも、社内ITの全体像を把握している人は実質的に1人しかいないケースがあり、十分に引き継ぎされないまま担当者が退職してしまうことは珍しくないという。
実際に、ゼロ情シスに陥った2社の事例を紹介する。1社は従業員約100人のソフトウェア企業、もう1社は従業員約50人ほどの組織だ。亀田氏によれば、ゼロ情シスに陥りやすい企業には人手不足だけでは説明できない共通する特徴があるという。
担当者の退職申し出から最終出社までは約2カ月あった。だが、その時点ではシステム構成図や手順書、資産台帳が整備されておらず、老朽化したサーバのリプレースと新拠点の開設も同時に進んでいた。IT環境を把握する担当者がいなくなる直前という危うい状況だった。
亀田氏は2カ月間で担当者へのヒアリングを重ね、運用手順やノウハウを文書化した。さらに約1カ月間、並走しながら運用を引き継いだという。その結果、退職後も業務が止まることはほとんどなかった。その後は運用代行やインフラ更新を進め、新任担当者への引き継ぎを経て、着手から約1年で、次の担当者が運用できる状態まで立て直した。
ある医療機関では、相談を受けた時点で前任の担当者は既に退職していたという。後任者は配置されていたものの、ITの経験は乏しく、十分な引き継ぎはなかった。前任者から直接話を聞く機会もなく、約1年間は大きな問題が発生しなかったため、IT環境を詳しく調査することもなかったという。
だが、ある日、突如システム障害が発生した。システム構成や設定を把握している人がおらず、原因の特定や復旧に大きな支障が生じた。
医療機関には、医療情報セキュリティに関するガイドラインへの準拠を確認するための文書整備が求められる。だが、この医療機関では構成図や契約一覧がなく、現状の把握すら困難な状態だった。さらに、事務系システムと電子カルテ・医療機器のネットワーク分離も不十分で、障害発生時の連絡先や対応手順も明確になっていなかった。
亀田氏によれば、既存の環境を一から読み解き、どこに何があり、どの程度利用され、契約期間がいつまでなのかを逆算して把握する必要があり、非常に大きな労力がかかったという。
まず既存システムを手作業で調査し、ドキュメントをゼロから作成した。全体像の把握に2カ月、アセスメントに1カ月、セキュリティ対策の実装に2カ月、中長期計画の策定に1カ月を要し、通常運用へ戻るまでに計6カ月かかった。その間の作業量も、通常時の2倍以上に膨らんだ。
同じ「ひとり情シス」担当者の退職でも、復旧にかかる負荷は大きく異なる。違いを生むのは、退職前に十分な引き継ぎ期間を確保できたかどうかだ。
支援対象の規模が大きくなるほど、把握できていない領域も広がる。亀田氏が「最も難しかった」と振り返るのは、小売業のグループ企業のケースだ。支援開始時はグループ4〜5社、従業員300人以下の規模だったが、約2年にわたる支援期間の中で対象範囲は拡大した。現在ではグループ約10社、7拠点、従業員500〜1000人規模にまで広がっている。
この案件の難しさは、IT環境だけではなかった。グループ各社で企業文化や運用ルールが異なり、PCの購入先を取っても、A社はX社、B社はY社を利用するなど、契約先や利用ツールは統一されていなかった。
各社のIT管理を担っていたのは、専門担当者ではなく、本業と兼務する従業員だった。メール環境やファイルサーバは会社ごとに分かれ、セキュリティポリシーも統一されていない。結果として、管理が不十分な拠点がグループ全体のリスク要因になっていた。
全体像の把握は、各社をゼロから調査するところから始める必要があった。調査だけで数カ月を要し、入退社に伴って残された管理者パスワード不明のアカウントや、削除可否を判断できないメールアカウントも数多く存在した。契約書や請求書をさかのぼり、利用中のサービスや契約状況を確認する作業も発生した。
さらに厄介だったのは、退職者本人に確認できないケースだ。連絡が取れない場合や、会社の方針で連絡を控えている場合もある。その場合はベンダーへの問い合わせや本人確認などの手続きが必要となり、復旧まで数週間かかることもある。実際に、パスワード復旧だけで数十万円を要した例もあった。
設定内容が分からないシステムは、不用意に変更すれば業務停止につながる恐れがある。検証環境も、確認できる担当者も存在しない状況で、現状調査から環境統合、運用の安定化まで約2年を要した。
これらの事例に共通する問題はどこにあるのか。亀田氏がまず着目するのは、企業側の認識だ。「現状、問題なく動いているから大丈夫」という考え方が根強く、システムは止まらないことが前提となり、稼働している間はIT環境への改善投資が後回しにされやすいという。
情報システムは、正常に動いている限り、その価値や必要性が見えにくい。壊れていないものへの投資は先送りされ、担当者の退職などをきっかけに、これまで蓄積されてきた未対応の課題が表面化する。
もう一つの要因は、経営層が社内ITの実態を十分に把握していないことだ。特に中小企業では、「長く担当している人に任せておけば安心」という判断になりがちだという。兼務担当者も多く、業務量や抱えているリスクが見えないまま、担当者に負荷が集中しているケースも珍しいいことではない。
見えないのは業務量だけではない。担当者が持つ知識やノウハウ、システム全体を把握しているという役割そのものも、経営層からは把握されにくい。その結果、業務と知識が1人に集中する属人化が進み、誰も状況を確認できない状態のまま時間が経過してしまう。
では、なぜ情報システムの属人化は進むのか。亀田氏は、大きく3つの要因を挙げる。
1つ目は、時間的な要因だ。専任・兼務を問わず、日々の問い合わせ対応や障害対応に追われ、手順書や構成情報の整備は後回しになりやすい。2つ目は、評価の要因だ。ドキュメント整備や環境改善は成果が見えにくく、トラブルを解決する対応力の方が評価されやすい企業も多い。その結果、属人化した状態そのものが、担当者の価値として認識されてしまう。
そして3つ目は、経営的な要因だ。前述の通り、経営層がITの管理を担当者に任せきりにし、組織として把握・管理する仕組みを整えないことで、属人化が固定化される。
これらの要因は、担当者個人の努力だけでは解決が難しい。属人化は担当者の問題ではなく、組織としてITを管理する仕組みの問題だ。属人化した体制は、担当者が離れた瞬間に「ゼロ情シス」に陥る恐れがある。
亀田氏は、ゼロ情シスに陥りやすい企業のパターンを4つに分類する。
総務や経理などの担当者が、本来の業務と並行してIT対応を担うケースだ。中小企業では最も多い形態で、判断や対応に専門知識が必要な場面で、対応が止まってしまうことがある。
担当者の退職後も後任を置かず、アカウントや契約情報が整理されないまま放置されるケースだ。数カ月から数年が経過した後に、問題が表面化することもある。
外部ベンダーに個別の作業を依頼する一方で、社内にシステム全体を把握し、判断できる担当者がいないケースだ。依頼した範囲の対応は進んでも、全体最適の視点が欠けてしまう。
創業時に経営者自身がIT環境を整備し、そのまま管理を続けるケースだ。事業規模の拡大に伴ってシステムが複雑化すると、経営者1人での管理が限界を迎える。
この中でも、特に対応が難しいのは「退職放置型」だと亀田氏は指摘する。担当者が管理者アカウントやシステム構成を把握したまま退職し、連絡が取れない状態になると、まずはアカウントの復旧や権限の回復といった、本来発生するはずではなかった作業から着手しなければならないためだ。
これら4つの類型に共通する根本的な問題は、ITを経営課題として捉えられていないことだ。多要素認証の未導入、パッチ適用の遅れ、バックアップの未検証、退職者アカウントの放置。これらはいずれも高度な技術が必要な問題ではなく、優先順位をどう設定するかという経営判断の問題だ。
亀田氏は「IT部門をコストセンターと捉え、採用や予算投入を後回しにしてしまう企業も少なくありません。中小企業では予算面の制約もありますが、必要な人材を確保し、適切な投資を行わなければ、優秀な担当者ほど負荷を抱えて疲弊し、離職につながってしまいます」と指摘する。
担当者が疲弊して退職し、後任が配置されないまま「ゼロ情シス」状態になる。この悪循環を断ち切るには、退職の申し出があってから対応するのではなく、平時から備えておく必要がある。
亀田氏が挙げる平時の対策は、次の5点だ。「管理者権限を個人に依存させない」「IT資産・アカウント・契約情報を台帳化する」「ドメインやSaaSの契約を共有管理できる状態にする」「ドキュメント更新を日常業務に組み込む」「担当者1人に依存しない体制を整える」。
また、退職の申し出があった際の対応にも注意が必要だ。引き継ぎの内容や進め方を本人任せにすると、本当に必要な情報が抜け落ちる可能性がある。引き継ぎには一定のノウハウが求められるため、事前に項目や手順を整理し、計画的に進めることが重要だ。
一方で、完璧な引き継ぎを実現することは難しい。年に1度しか発生しない作業など、実際のタイミングにならなければ把握できない業務も存在するからだ。
情シス担当者の退職は、ともすれば個人の事情として扱われる。だが、実際に表面化しているのは、長年可視化されないまま蓄積された組織のIT負債だ。担当者の退職は、その負債が一気に表面化するきっかけにすぎない。
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