製薬はコストも高く成功率も低い苛烈な業界だ。一方で、AIの活用により費用を1200億から半減、成功率を10倍にできるという試算もある。中外製薬はそのような業界の中で、AIにより2030年に研究開発の成果を倍増するという計画を掲げた。その秘策とは。
「2030年に研究開発の成果を倍増、グローバル製品を毎年ローンチする」――この大胆な計画を進めているのが、医療用医薬品のトップランナーの一社、中外製薬だ。すでにトップクラスの売り上げ(1兆円超)と、営業利益率47.5%の業績を誇る同社が抱える課題とは何か、大きな目標達成に向けたAI活用DXの進め方は。同社DX責任者が現状と未来計画を明かした。
創薬のグローバル競争は苛烈だ。一般的な治療薬は飽和状態で、製薬業界は新薬研究開発にしのぎを削っている。中外製薬のDX責任者である金谷和充氏は「新薬開発の難易度は非常に高く、グローバルでの生産性低下が課題になっていると指摘した。
そこで、中外製薬は、創薬にAIを活用して別次元の効率性を生み出そうという取り組みを進めている。AIによる生産性向上への期待は、厚生労働省での議論の過程で数値的に示されており、「創薬開発の必要期間を、従来の13年から9年に4年短縮」「費用約1200億円からおよそ半減の640億円削減」「成功確率が従来の0.004%から10倍の0.04%に増加」するという試算が示されている。
同社は「2030年に研究開発の成果を倍増、グローバル製品を毎年ローンチする」という目標を掲げている。創薬領域のみならず、事業と組織全体でAIを活用しやすいように、大規模な取り組みを進め、2030年にはグローバルでトップイノベーターの1社となることを目指す。その実現のための鍵は2つある。
1つは「デジタルを活用したRED(Research and Early Development/創薬・早期開発)領域の高度化」だ。これには、AIを活用した創薬プロセスの革新だけでなく、開発モデルの高度化、アウトカムの可視化が含まれる。研究と早期開発のプロセスを高速化する取り組みだ。
もう1つは「全てのバリューチェーンにわたる生産性向上」だ。これには治験のデジタル化による自動化や遠隔化、スマートファクトリーによるデジタルと人間の協働、インサイトの活用、RPAなどの活用を通した定型業務の自動化が含まれる。これらにより、後期開発やサプライチェーンマネジメント、生産、営業やマーケティングの大幅な生産性向上を図る
これら2つを軸として全社の基盤を変革し、医療関係者と患者に革新的なサービスを提供していくのが同社の狙いだ。デジタル活用によって得られるデータは統合および蓄積し、同社のCCI(Chugai Cloud Infrastructre)と呼ばれるデジタルIT基盤に取り込む。この基盤を活用して、開発や営業などの効率化により全体の生産性を上げる。そして、業務によって生まれたリソースを研究開発に充当し、研究開発を高度化していくという流れだ。
金谷氏は「当社のDXへの取り組みは2020年から。まずは人とIT の協働基盤を作り、それを活用して全体の生産性を上げている。企業文化を変え、ビジネスを変える取り組みを進め、その先に創薬を含めた社会貢献を果たしたい」との旨を語った。
AIをパートナーとする成長戦略として同社が2025年に発表したDX戦略「Chugai AI Strategy」でも、DX推進の中核にAIに定めている。 「AIをパートナーとして人と組織の可能性を解放し、医療の未来を切り拓き、人々に新たな希望を届ける」というビジョンの下、「AI Everyday」「AI Everywhere」「AI Transformation」という3つの戦略の柱を推進している。
第一の柱である「AI Everyday」は、人に注目した取り組みだ。「AIが当たり前の状態を実現して、全社員が日常的に価値を生み出す」ことを目標とする。 具体的な取り組みとして、従業員がAIを活用して生産性を向上できるツールの導入を進めている。
その一つが、同社独自のAIプラットフォーム「Chugai AI Platform」だ。用途に合わせて9種類のAIモデルを選択可能にし、従業員がAIをパートナーとして日常的に活用できるようにした。すでにこの基盤上でAIを利用している従業員は9割以上、うち半数以上が毎日活用しているという。「目指しているのは、定型的・総合的な業務はAIに任せ、人間は非定型・専門的なコア業務を担う新しい創造的なイノベーション創出だ」と金谷氏は述べた。
第二の柱である「AI Everywhere」は、個人の生産性向上から、組織の業務プロセスへと焦点を移した取り組みだ。 「大きなプロセスの範囲を特定してエンドツーエンドで最適化していく」ことに取り組んでいる。
Chugai AI Platformでは、自律的に業務を自動化するAIエージェントを、ゆくゆくは1人当たり10個、全従業員で約10万個まで、管理・利用できる状態を構想している。「個々の作業をAIエージェントで効率化することにより、生産性が5%上がる。さらに各エージェントをつなげて特定プロセスを効率化・自動化すると生産性は15%向上し、エージェントと連携したさまざまなプロセスの効率化によって、最大30%の生産性向上を目指す」という試算だ。
第三の柱は、上述のプラットフォーム活用や業務プロセス最適化の結実として、冒頭の「研究開発の成果倍増、毎年自社グローバル品上市」を実現する「AI Transformation」だ。「独自性を磨く」「AIによるレバレッジ」「トップイニシアチブ」の3方向で進めるという。
同社の「独自性」を支えるのは、長年蓄積してきた独自のデータや形式化されていない暗黙知、組織の経験や文化だ。これらを活用するためには、形式化や構造化、モデル化を通じて、共有・継承のための組織知へと転換する必要がある。
それを実現するのが「AIによるレバレッジ」だという。さらに「トップイニシアチブ」として、経営層や部門長がプロジェクトを主導し、中・長期的には組織体制やプロジェクト環境を改革していく。
最後に金谷氏は「AI活用による企業変革には大きな課題がある」と指摘した。それは、組織と個人のマインド変革だ。
慣れ親しんだ業務プロセスを解き明かし、最適に変更していくことや、それに伴って働き方も変えていくことには困難が伴う。セキュリティや情報漏えい対策などのガバナンスも必須だ。そのため、人材育成が不可欠になる。
同社は2020年に「中外デジタルアカデミー」を立ち上げて、データサイエンティストを中心とした人材育成に取り組んできた。これは、1つの専門分野を極めていくスペシャリストの養成と言える。さらに現在では、もっと幅広い視野と知識で複数の専門領域をまたいで理解できる「π型人材」が必要な時代であり、今後はビジネスと技術、クリエイティブの3領域を越境して統合できる「BTC型人材」が必要になると述べた。
BTC人材の育成とイノベーションを引き起こすための前提として金谷氏が指摘したのは「データの民主化」、すなわち、従業員が会社のデータを共有して、部門を超えた利活用が可能な環境にしておくことだ。
いずれ10万個のAIエージェントの稼働を見込んでいる同社では、「いかにデータを民主化できるか、アクセスしたい情報に誰でもアクセスできる状況を(安全な形で)どう作り出すか」を追求し、全社的な基盤整備を現在も続けている状況だ。金谷氏は「AIを活用して人と組織が育ち、世の中にない価値を世界に届けていきたい」と語った。AI創薬への注目が集中しがちだが、組織と事業の隅々にAIを組み込んで変革していく姿勢は、製薬業界のみならず、どの業種でも参考になるだろう。
本稿は、Sansanが2026年6月3日に開催したイベント「Eight EXPO 2026」内のセッション「AIが"現場で使われない"をどう乗り越えるかー全社ごと化への中外製薬DX実践」における金谷和充氏の解説を基に、編集部で再構成した。
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